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保護者インタビュー「生きときゃ、どげんかなるくさ!」

保護者インタビューまなざし♯17

「生きときゃ、どげんかなるくさ!」

岩田真理さん(福岡県 50代)

 

フルタイムの保育士として働く岩田真理さん(福岡県)は、この2年間、コロナ感染の恐怖や緊張感の中で仕事をしてきた。「働くお母さん、お父さんを支えたい」という志で保育士に転職したが、コロナ禍で、その思いはさらに強くなったという。夫の病死から5年経った今、改めて健康の大切さと、つらい時は誰でも「助けて」をいう勇気を持ってほしいと語ってくださった。

念願かなって保育士に

「中学生の頃から、保育士か、幼稚園の先生になりたいと思っていました。しかし、その当時は親の反対もあって、高校を卒業後、一般の会社に就職しました。保育士の資格を取ったのは、47歳になってからです」

真理さん自身が子どもを産んだ時、実家に頼れない事情があり、2人の子育てを夫婦だけで乗り切った。その時に、心の拠り所となったのが保育士だった。保育士の方々がいてくれたから、育児ノイローゼにならずに済んだと、今でも感謝している。高卒でも受験できることを知って、次女が2歳ころから勉強を始め、47歳の時に保育士免許を取得した。50歳にして、念願の保育士となった。

「保育士になってみると、思っていた以上にやることがありました(笑)子どもはもちろん好きですが、お父さん、お母さんの力になりたい、という思いの方が強くて保育士になったので、コロナ禍の今、とてもやりがいを感じています」

 

真理さんは、子どもを迎えに来た母親たちとコミュニケーションを取ることを心がけている。

「母親たちは、本当に頑張っているのに、『頑張っているね』『偉いね』とは、なかなか言ってもらえません。私は、子どもを迎えに来たお母さんを、ほめて、ほめて、帰すようにしています。悩みや愚痴があるときは、それをよく聞いて、励ますよう心がけています。子どもが生まれるのも奇跡、母親になるのも奇跡ですから。当たり前ではないのです。育児の渦中では、なかなか気づけないことですけれど」

 

真理さんは、育児を取り巻く環境が、厳しいのではないかと感じている。

「『自分が生むと決めて生んだのだから、育児は自己責任。母となったからには、子育てはできて当たり前』とでもいう様な、厳しい社会の風潮があるように思います。今、いろいろな場面で『自己責任』という言葉が先行していて、『助けて』と言いにくい世の中になっているんじゃないかなと思うんです。困っている時に、「助けて」と発信しやすい、優しい社会であって欲しいなって思います。自分も、ママ友や、ご近所の友人や、保育士さんなどに助けてもらってここまで来られたので、今度は誰かを助けたいという気持ちが、自然と芽生えてきました。なかなか、『助けて』は言えないかもしれないけれど、つらい時こそ、勇気をもって声をあげて欲しいです。黙っていると、周りは分からないものなので」

娘たちを溺愛した夫

真理さんは32歳の時に結婚した。

「夫は、生粋の博多っ子という感じで、威勢がよくて、気が短くて、情にもろくて、メンタルの弱い人でした(笑)私はずっと、自分がいい母親になり、いい家庭を持てるイメージが抱けなくて、子どもはいらないと考えていました。しかし、出産年齢の限界が迫ってくると、『やはり欲しい』という気持ちが高まってきたのです。37歳で長女を、41歳で次女を授かったとき、夫は『本当は子どもが欲しかったんだ』って大喜びしてくれました」

 

夫は、娘たちを溺愛した。子どもが熱を出そうものなら、それこそ大騒ぎで、夫婦交代で有休をとって、つきっきりで看病したことを思い出す。

「夫の武勇伝は、長女が熱を出した時に、一日中抱いていた、というものだったくらい。娘たちを、それはそれは可愛がりました。いつも、すぐに抱っこしてしまうので、長女が自力で歩けるようになったのは1歳10か月の時でした。標準よりもずっと遅くて、保健所の検査で異常を指摘されてしまったほどです。保育園の先生方は、そんな夫をよく知っていましたから、『抱っこしすぎて歩かせないだけ!』と叱られてしまいましたけれど(笑)」

おっとりと育った長女と、やんちゃに育った次女。ふたりの子どもたちの個性を楽しみながら、夫婦は協力して家庭を作った。夫は、共働きならば、家事を分担するのは当たり前と、掃除、洗濯をしてくれた。平和で、愛情に満ちた日々だった。

岩田さん家族写真

家族みんなで沖縄旅行のひととき

覚悟はあったが、やはり別れは受け入れ難い

「夫とは歳が離れていましたが、彼はいつも若々しく、元気いっぱいでした。何かあれば、すぐに病院に行く用心深さもあったので、末期のがんが見つかったときは、まさか、という気持ちで、受け入れるのが難しかったです」                                                                                                                    

病気が見つかってから、1年半の闘病生活を送った。最初は、何とかなるのではないかという気持ちが強かった。

「いきなり、3か月の入院加療と言われて、8歳と12歳の子ふたりとの母子生活を経験しました。仕事、家事、育児に、毎日の病院通いが加わって、あまりに忙しくて、その頃の記憶がほとんどないんですよ。家庭をひとりで回すのがいかに大変か、痛感しました。その時は、とにかくやりきるしかないと思いました」

 

夫が入院中の3か月は、長女の小学校卒業と、中学校入学の時期と重なっていた。どちらの式にも父親が出席できないことから、病気のことは、子どもにもきちんと知らせておこうと思った。真理さん自身、ひとりで全てを背負うことは耐えがたかったし、家族全員で夫を支えたいと考えた。

「その時は、病気は治るものと思っていましたし、まさか死ぬなんて考えてもいませんでした。最初の、抗がん剤治療と放射線治療で、がんが跡形もなく消滅した時は、私も子どもも希望を持ちました」

しかし、退院してきた夫は、思った以上に体力が落ちており、放射線の副作用で味覚も喪失していた。真理さんは、治療を機に夫の生活の質は各段に落ちたと感じた。その中でも、食べる楽しみを失ったのは、本人にとって、大変つらいことだろうと感じていた。

 

退院後ほどなくして、夫の患部が再び腫れた。残っていたがんが、息を吹き返したのだった。摘出手術を受けることになった時、真理さんは当時勤めていた会社を休職して、2ヶ月間、夫と過ごす決意をした。

「夫は、不器用な博多の人なので、普段、優しい言葉をかけてくれることはありませんでした。でも、買い物に行ってくれたり、掃除や洗濯をやってくれたりして、今思えばそれが、彼なりの愛情表現だったのかなって思います。入院中も、外泊が許されると、限られた時間なのに『買い物しよう』といって、日用品を買いに行き、家事をしてくれていました。」

 

手術は成功したものの、8か月後に再発が認められた。その時、がんは全身に転移していた。夫に抗がん剤治療や放射線治療を受ける体力は残っておらず、闘病は断念せざるを得なかった。緩和ケア病棟に入ることを決めた。

「発病して、丁度、1年後の3月に緩和ケアに入院しました。5月の母の日に病棟がカーネーションとカードを用意してくれたのですが、そのカードに『元気だったら、家事ができるのにごめんね』と書いてありました。元気だったころは、短気で、すぐ怒って、いいたいことをポンポン言う人だったのに、今、こんなこと言うなんてずるいよって思いました。」

だんだんと衰えていく夫を見るのはつらかったが、『苦労をかけてごめん』と優しい言葉をかけられると、彼の死が迫っている現実を見るようで、一層つらく、悲しくなった。

父親の死と子どもたち

「余命宣告を受けた時、長女が一緒にいました。主治医が、若く、ハンサムで優しい先生だったので、先生に会いたくて、娘はついてきたのです。そこで、まさかの余命宣告でした。自分も、子どもも、呆然としていました。緩和ケアの先生は、子どもにも分かるように、優しく説明をしてくれました。夫が亡くなるまで、皆さん、本当に優しく接してくれました」

 

夫は、穏やかに息を引き取った。ただ眠っているだけのように見えた。子どもたちは、父親の死がピンと来ていない様子だった。亡くなった感覚を持てなかったのか、通夜でも葬儀でも、あっけらかんとしていて、涙を見せることはなかった。

「子どもたち、大丈夫かな?って、思ってはいたのですが、自分は喪主で走り回っていて、子どもたちに十分気を遣う余裕がありませんでした。火葬場へ行って、荼毘にふして、骨になった姿を見たときに、子どもたちが、突然、ギャーって叫んでパニックになりました。泣きわめいて、骨を拾うことができませんでした。その時、初めて、父親が死んだことが分かったかのようでした。死を目の前に突き付けられたのだと思います」

 

長女は、余命宣告に立ち会ったこともあって、父親の入院中から真理さんを支えようと頑張っていた。次女は、父親が緩和ケアに入ったころから、荒れ始め、学校でも度々問題を起こすようになっていた。

「同級生や学校に迷惑をかけるのは、もちろん、いいことではありませんが、ある意味で次女は、ストレスを表現している、出せている、と感じていました。長女は、頑張って、いい子でいようと感情を抑えていたので、それが、かえって心配だなと思いました」

 

長女は、高校進学を機にあしなが育英会と出合い、夏に行われた高校生のつどいに参加した。父親が他界してから2年が経っていた。そこで、初めて自分と同じように、親を病気で失った同年代の仲間と出会った。

「あしながの高校生のつどいで、初めて泣いたと、娘から聞きました。安心して自分が出せた、泣けた、と聞いてホッとしたのを覚えています。火葬場で泣き叫んで以来、全く涙を見せずに頑張っている長女のことが、正直心配でした。泣く機会をもらえて、とても、ありがたかったです」

 

つどいでは、進学をためらっていた長女に、先輩奨学生が、「あきらめちゃいけないよ」と言葉をかけてくれた。長女は「勇気をもらった」と、話してくれた。

「あしながの素晴らしいところは、そこだと思うのです。境遇が似ている仲間と、安心して話ができる場は、他にはないです。親子関係は、意外と複雑なもの。親子なりの気遣いがあります。素直に聞いてくれないところもあるし。全然、違う立場の方から、かけてもらう言葉の方が、はるかに意味があったりします。娘はつどいで勇気付けられて、前に進めたのかなって思っています」

 

長女は、絵を描くことが好きで、イラストをSNSに投稿することもある。この春から、芸術系の短期大への進学が決まった。

「イラストを仕事にするのは難しいので、安定した職に就きながら、絵を描き続けたいっていっています。案外、しっかりしているんですよ(笑)」

 

次女はまだ、やりたいことが分からないと言っている。

「分からなくて当たり前だよ、って伝えています。姉は、たまたま絵を描くのが生きがいで、絵を描くために生まれてきたようなものだから、比較はしないで、あなたはあなた、ゆっくり探しなさいと言います。人生は、迷っても、迷っても、無駄なことはひとつもない。迷っていいよ、ゆっくりでいいよって」

次女も、やがて高校奨学生になるだろう。奨学金は、もちろん大変にありがたいが、つどいのような貴重な体験、同じ境遇の仲間と出会えることが、それ以上にありがたいと思っている。

「機関紙(あしながファミリー)を見て、私も頑張ろう、って思うんですよ!あしながは、私にとっても安らぎの場所なんです」

岩田さん753

娘たちの七五三のお祝い

健康あればこそ

夫の葬儀の1週間後に、真理さんは肝臓障害の診断を受け、自宅での静養を余儀なくされた。飲酒も喫煙もしない真理さんには意外な病名だった。

「検査しても原因不明だったのですが、肝臓の健康状態を示す数値が、飛びぬけて悪かったんです。結局は、ストレスが原因でした。免疫力が下がった時に、何らかのウイルスが肝臓に入ったのでは?と言われました。その時に、無理は絶対にできないと思いました。私に何かあったら、子どもたちは路頭に迷うと…」

 

今、真理さんが声を大にして言いたいのは、『健康第一、絶対に無理をしてはいけない』ということだ。

「身体は大事ですよ。身体があってなんぼです。私も、一時期は2人の娘を高校に行かせたいから、2つでも、3つでも仕事をしたいと思っていました。だから、無理したい気持ちもすごく分かります。でも、結果的にはリスクの方が大きく、後々の反動の方が怖いと実感しました。腹八文目の気持ちで、生活のバランスを保つ方が大事かと思っています」

 

「年齢順当、先に死んでいくものとして、若者には未来を託していきたいです。未来を担う人は、それだけで必要とされる存在です。若い方の自殺が多いですけれど、ぜひ、希望を持って、生きてもらいたいと思います。生きときゃ、どげんかなるくさ!(生きていれば、どうにかなる)って、娘たちにはよく言うんですよ」

 

インタビュー 田上菜奈

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