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保護者インタビューまなざし「全身全霊の愛」

保護者インタビューまなざし#30

「全身全霊の愛」

鈴木 春菜さん(東京都 30代)

 

春菜さんが夫と出会ったのは18歳の時。夫は9歳年上の27歳。社会の中で上手く立ち回れない未熟なふたりが出会って始まった結婚生活だったが、気が付けば夫は正社員として働き始め、ふたりの子どもを授かり、マイホームを手に入れることができた。夫の死後、遺された幼い子どもたちを育てながら、春菜さん自身も成長を続けている。生きて、出会って、成長した、ふたりの愛の物語だ。

おばあちゃんがしっかり者にしてくれた

春菜さんの両親は、春菜さんが3歳の頃に離婚。その後は祖父母に育てられた。

「母は、ひとりで私を育てることが難しく、私は祖父母に預けられたまま、大きくなりました。母と祖母は相性が悪くて、母はあまり実家には戻ってきませんでした。祖母は『お父さんがいないからこうなった』と言われないようにと、私に愛情をかけてくれました。ピアノやそろばんを習わせてくれました。そして、厳しく育ててくれました」

 

学校で気を張ってしまう春菜さんは、家に帰ると祖母にわがままを言った。祖母は時に優しく、時に厳しく、そんな春菜さんと向き合った。

「よく『なせば成る、なさねば成らぬ何事も』とか、『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』とか、格言を使って教えてくれました。『お金は大事だ』ということも、祖母から叩き込まれました」

 

意地悪されたときは、「何でそういう事するの?って言いなさい」と言われ、実際に役立ったこともある。

「祖母に言われた通り、意地悪をする子に『何でそんなことをするの?』と聞いてみました。すると、子どもは理屈よりも感情で意地悪をするので、何で?何で?と理由を聞かれることが面倒臭くなって、いじめなくなるのです」

祖母は、「勉強でも、何でも、分からないことがあったら人に聞きなさい」と教えてくれた。

 

しかし、一方で、口うるさい祖母とは衝突も多かった。口喧嘩は日常茶飯事だった。春菜さんは思春期になると精神のバランスを崩しはじめ、摂食障害になって、10キロほども痩せてしまった。学校には行っていたが、無理してやっと行けている感じだった。

「中学生の頃は、祖母とよくもめました。祖父母の家を出て母と暮らし始めましたが、持病のある母に頼られてヤングケアラーになってしまい、半年くらいで生活が破綻しました。でも、戻って祖母に口やかましく言われるのも嫌で、母と祖父母の家を行ったり来たりしていました」

 

17歳の時、春菜さんは市販薬をオーバードーズ(過剰摂取・OD)して、病院に担ぎ込まれる事件を起こした。2~3日意識が戻らなかった。母と喧嘩して、腹いせにしたオーバードーズ。死にたかった訳では無いが、行き場のない、どうしようもない気持ちが、そのような形で現れた。この頃はリストカットもしていた。心が暴れていた。

 

「高校時代は学校よりもアルバイトにのめりこんで、高校を卒業するまでには百万円以上の貯金をしていました。おしゃれな洋服を買っても、着てみると想像していた自分と違う…ということもあって、服なども買わずひたすら貯金していました。お金が貯まっていくのが楽しかったのです。あ、でもアルバイトの後にカラオケに行くなど夜遊びもしていました」

 

高校3年生の時には不登校にもなり、単位も出席日数もギリギリで、何とか卒業することができた。心も身体もギリギリの、危うい学生時代だった。

未熟なふたりが肩寄せ合って

春菜さんは高校を卒業後、音楽の専門学校へ入学した。しかし、そこで厳しい現実を見た。

「ボーカルを学んでいました。でも、専門学校の子たちの歌声を聴いて、すっかり自信を失ってしまいました。自分の実力で食べていくのは難しいな、と感じて早くも行き詰まってしまったというか。同じころ、アルバイト先で夫と出会ったこともあって、段々と音楽から心が離れていったと思います」

 

夫は、初恋の人だった。

9歳年上の大人の彼は、シルエットが父に似ていた。春菜さんがずっと求めてきた父親のような存在感と安心感。誰とでも仲良くなれる、人懐こい憎めない性格で、優しくて、面白い人だった。

「付き合い始めた時、夫はよく『波長が合う、波長が合う』と言ってくれました。確かに、いろんな価値観がぴったり合って、私の家族とも上手くコミュニケーションを取ってくれました。ただ、ちょっと浪費癖があったのと、すでに2回結婚していたのと、27歳でもアルバイトだったのが気になるところですが(笑)私はもう夢中でした」

 

同棲を始めると、高校時代からの貯金が役に立った。

「彼に350万は貸しています(笑)。一緒にラウンドワン(スポーツ・ゲーム施設)に行って、カラオケをしたりゲームをしたり。彼はものすごくボーリングが得意で、玄人はだし。平均でも200点は出していました。マイボールをいくつも持っていて、一緒によくやりました。彼は車も好きだったので、車でいろいろな所に連れて行ってくれました」

2匹のダックスフントがふたりの暮らしにを彩りを添えた。犬と泊まれるペンションを訪ねてみたり、夫が大好きだったイルミネーションを見に行ったりした。温泉地の旅館に泊まった時は感激した。

「とにかく、出かけるのが大好きな人だったので、ふたりの生活が本当に楽しかったです」

 

父や母と、外出や旅行ができなかった春菜さんにとって、夫との時間は子ども時代を取り戻すような楽しい体験の連続だった。また、2度の結婚で挫折した夫にとっても、波長が合い、素の自分を受け入れてくれる春菜さんとの時間は、自信を取り戻すプロセスになった。ふたりは離れがたい存在だった。

「夫は、なかなか正社員になりませんでした。働くことは嫌いではなかったにしても、ストレスを感じやすいのか、体調を崩して離職することも度々あって、気楽なアルバイトを好みました。でも、私は正社員になってもらうことにこだわりました。頑張って正社員になってもらって、滞っていた保険や年金を全部納めることができたので結婚を決めましたけれど、やはり体調を崩して離職したりして、なかなか安定しませんでした。結婚当時は無職でした」

 

しっかり者の妻として夫をリードする春菜さんも、当時のメンタルは不安定で、夫と衝突するとオーバードーズをしてしまうなど、心が揺れた。それでも、ふたりで肩を寄せ合って、揺れ動くお互いを支え合って、なんとか歩みを続けた。悪い時をやり過ごすと、また、楽しい時間もやってきて、ささやかな幸せ、小さな喜びを頼りに、ふたりの生活は続く。全身全霊で互いを愛した。

 

結婚式の一幕

 

結婚式の一幕。花嫁姿を、母も祖父母も祝福してくれた。

子どもが自分たちを親にしてくれた

アルバイト先の仲間が妊娠したことをきっかけに、春菜さんの心境に変化があった。

「あぁ、私も子どもが欲しいなぁと思い始めました。子どもができたら、夫も腹を据えて正社員になってくれるのではないか、という期待もありました。実際、『子どもができたよ、正社員になって』と伝えると、彼は目の色を変えて仕事を探してくれました(笑)。二転三転しながらも、3月に正社員の仕事が決まり、4月に長男が生まれました。その後は、ずっと頑張って同じところで働いてくれました」

 

長男は、大変な難産だった。あまりに辛かったので弟妹は迷ったが、3年後に長女が生まれ、ふたりは一男一女の親となった。

「娘が生まれた時、夫が『ちっちゃい…可愛い!』と言ったのを覚えています。もう、娘にメロメロでした。夫は子どもたちと、よく遊んでくれました。車好きが集まるオフ会にも長男を連れて行ってくれたし、電車好きの長男のために、秩父の汽車を見に行ったり、Nゲージ(精密な車両模型)を走らせることができる施設に行ったりしていました」

 

長男が4歳、長女が1歳になった時、マイホームを購入した。ふたりにとって、念願のマイホームだった。

「夫は一度、自己破産したことがあったのですが、何とか住宅ローンの審査が通りました。中古の家をリフォームして、自分たち好みの家にしました。夫は屋根裏部屋に、息子と自分のためにNゲージのジオラマを作り始めました」

春菜さんにとっても、夫にとっても、人生の中で最も穏やかで、充実した時期だった。

突然の別れ

マイホーム購入から半年が過ぎたころ、春菜さんは夜間のアルバイトに出ていた。夫が仕事から帰ってきて、食事や風呂や子どもの寝かし付けを済ませてから、カラオケ店で深夜まで働いた。

 

その日、深夜2時頃に帰宅した春菜さんは、いつもなら消えている1階の電気が付いていることに気づいた。2階の寝室に行ってみたが、夫はいなかった。

「どこにも夫はいなくて…最後にトイレに行ってみたらトイレに座っていたのです。『何寝てるの?』と言って夫に触れると、彼はすでに冷たくなっていました。すぐに救急車を呼んで、救急隊が駆けつけてくれましたが、その場で死亡が確認されました。警察も来ました」

 

検死のために身柄が警察に移され、事件性の有無をひとしきり調査した。警察官は『お若いから解剖した方がいい』と言った。春菜さんも、死因が知りたいと思い、解剖することになった。

 

「その時、4歳の長男が『おしっこもらしちゃった』といって起きてきました。とっさに、『パパ死んじゃったよ』と口にしてしまったのですが、息子はそのまま眠りに戻りました。とりあえず、両方の両親に電話をして状況を説明しました」

警察の見解では、死亡推定時刻は午前0時とのことだった。

それは、長男の誕生日の前日の出来事だった。

 

夜が明けてから、長男を保育園に預けに行って、保育士に夫が他界したことを告げた。春菜さんは目を泣き腫らしていた。様々な手続きや、葬儀の打ち合わせに、慌ただしく動き回った。解剖に時間を要したため、葬儀は少し先になったが、翌日は長男の誕生日だったので、葬儀にならなかったことに安堵した。

「友人が『誕生日をレストランでお祝いする?』といって連れ出してくれました。でも、私は食事がのどを通らなかったです。長男はようやく5歳になったけれど、長女はまだ1歳。これからの道のりを考えると、不安でした」

 

解剖の結果、夫の死因はくも膜下出血と分かった。腎臓に多発性嚢胞腎という遺伝性の病気があったことも分かった。通常150グラム程度の腎臓に嚢胞が溜まり、2キロほどにもなっていたという。その合併症として高血圧と、くも膜下出血などの脳血管障害になりやすいことも説明された。子どもへの遺伝は1/2の確率であると知らされた。

「思い返せば、血尿やら、頭痛やら、吐き気やら予兆とでもいうべき症状はありました。それが、そんな大きなことになるとは、思ってもいませんでした」

 

春菜さんは、泣きに泣いた。しかし、泣くだけ泣くと、なんとなく納得する気持ちが生まれてきた。

「夫は使命を全うしたのだ、という感じがしてきました。人は使命を尽くしたら死んでしまうという話をどこかで聞いたことがありました。夫は人生をめいっぱい楽しんで、子どもふたりを授かって、幸せな家庭も体験して、家も建てたから、彼がやりたかったことはクリアできている…と思えたのです。病気のことも、亡くなってからですが、私たちに教えてくれました。そう思うと、死んでしまったことを悲観しなくなりました」

 

葬儀には、100名以上の人が集まってくれた。友人や同僚とともに、車好きの仲間も駆けつけてくれた。別れを惜しんで夫へのビデオメッセージや手書きメッセージを残してくれた。子どもたちに、夫は人に慕われた人だったんだよ、と伝えられることが嬉しい。

 

家のローンは保険で対応でき、手放さずに済んだ。公正証書の遺言も残してくれていたため、遺産相続でもめることはなかった。42歳という若さで、まさか死亡するとは本人も思っていなかっただろうが、いざという時の備えはちゃんとしてくれていた。最後の半年間に、家の修繕や、手すりの取り付けなど、必要な手仕事は全て済ませていた。引っ越しがあったため荷物の整理も出来ていた。いつまでも少年のような、どこか頼りなかった夫は、春菜さんと過ごした15年の間に、立派な父親に成長していた。

レインボーハウスにつながって

春菜さんは、泣くだけ泣いた後は、夫の死を受け入れて、気持ちを切り替えることができた。自分と子どもたちのために何ができるか。幼いころからの祖母の教え「分からないときは人に聞け」を実践する春菜さんは、検索する能力にも長けている。

 

「インターネットで調べてあしながレインボーハウスとつながったのは、夫が亡くなって2か月経つか経たないかの頃でした。親と死別した子どもたちのための、心のケアプログラムがあると知りました。翌月のプログラムから参加しました。長男が5歳、長女が2歳の時です」

あしながレインボーハウスでは、子どもと親は別々のプログラムに参加する。初対面の人との会話が得意ではない春菜さんだが、居心地の悪さは感じなかった。2歳の長女は人見知りする時期だったので、親と離れて泣いたりもしたが、長男はすぐに馴染んで、楽しそうに遊び始めた。

「その時から毎月のようにプログラムに参加しています。私も段々と、場にもメンバーにも慣れて、5年経った今はくつろげる場所になっています。レインボーハウスは私たちにとって必要不可欠な場所。生活に必要なものです」

 

特に印象に残っているのはクリスマスのプログラムだ。善意で寄せられたプレゼントが、子どもたちの手に届く。

「小さな子どもたちが、自分の身長ほどもある大きなプレゼントを抱えて、嬉しそうに見せに来るのが印象的です。とっても嬉しそうで」

 

プログラムの参加者とは、プログラムで会う時だけの間柄だ。それでも、同世代で、パートナーを亡くした者同士が話す機会はほとんど無いため、貴重な場所だと思う。レインボーハウスには、「プログラムで話したことは、人には話さない」「求められない限りアドバイスはしない」「自分も大事、相手も大事」というルールがあるので、他の場所では話せないことも安心して話すことができる。

 

「将来のことを考えた時、子どもが思春期・反抗期になったらどうなるのかなと不安を感じることがあります。親が舵を切らなくてはいけない局面もきっとあるはず。そんな時にひとりで決断するのはやっぱりきついなぁ…と思うのです。夫と暮らしているときも、決断は自分がする方でしたが、脇からの支えがあるのとないのとでは、大違いなんです」

だから、話を聞いてくれる仲間がいて、相談できる場所があるのは、何よりも心強い。

「レインボーハウスは大きな樹木のようです。私たちをずっと見守っていてくれて、癒してくれる。そんな存在です」

味のある人生になった

「夫が生きていたら、平凡な人生を続けられたと思います。でも、夫が亡くなって、自分と子どもに本気で向き合って、人生に深みがでたといえるかもしれません。勉強も始めたし、色んな経験ができているし。レインボーハウスにも出会えたし。もちろん、順風満帆な人の人生は羨ましいな、いいなと思いますけれど、波乱万丈な人生もなかなか面白くていいと思います。味のある人生になりました」

一昨年には、14年間、ずっと夫と春菜さんの傍らにいた2匹のダックスフントを見送った。癒しと慰めの存在だった犬たちとの別れは、本当に辛かった。

 

将来を問われたら、春菜さんは「仕事にのめりこみたい」と答える。

今は、小学生の子どもたちのために限られた時間しか仕事ができないが、本当は仕事にのめりこみたいと、ずっと思っている。今は、子どもたちが趣味。子どもとの時間が何より楽しいけれど、子が育つにつれフォーカスを自分に戻さなければならないことも分かっている。

「趣味なり、仕事なり、しっかりみつけていかなくちゃって思います。だから、ITの勉強も続けています。仕事に打ち込めるようになれば、収入も付いてきて、子どもに頼らなくていいですからね、一石二鳥。子どもたちにも学ぶ機会をたくさん与えたいです。巣立つ時がきたら、『ママは仕事だから!』と言えるようにするのが夢かな」

春菜さんは、毎日、少しずつ、でも確実に、進歩を続けている。

 

夫とは色々なところに旅行した

 

夫と愛犬たちと一緒に

 

(インタビュー 田上菜奈)

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