あしなが運動の歴史
OUR HISTORY
2002年春の第64回あしなが学生募金(4月19日、東京・渋谷駅でのオープニングセレモニー)。自分たちが受けた恩を後輩たちにも送り届けたいという「恩送りの心」が、この50年間あしなが運動を前にすすめてきた
被害者がつくり、「恩返し」の心が育てた
あしなが運動
あしなが運動の原点は、2つの痛ましい交通事故でした。
1961(昭和36)年、新潟で岡嶋信治(本会名誉顧問)の姉と甥が酔っぱらい運転のトラックにひき殺され、初の殺人罪が適用された交通事故。
1963年には、玉井義臣(前本会会長・2025年没)の母が暴走車にはねられ、1か月あまり昏睡状態の末、亡くなりました。
岡嶋は1967年に「交通事故遺児を励ます会」を結成。まもなく玉井を相談役に迎えて本格的に遺児救済のあしなが運動が始まり、1969年には財団法人交通遺児育英会が発足しました。
「恩返し運動」の始まり。
街頭募金や継続的にご寄付をくださるあしながさんに支えられて進学できた交通遺児たちが、「恩返し運動」として1983年に災害遺児の奨学金制度をつくる運動を始め、1988年に災害遺児奨学金制度が開始。
さらに災害遺児が病気遺児の奨学金制度づくりを呼びかけ、1993年の病気遺児奨学金制度開始に合わせて、
あしなが育英会が誕生しました。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生。直後から新聞記事や住宅地図を頼りに、遺児学生たちは震災遺児の所在捜しに奔走する。
阪神・淡路大震災遺児の心のケアの拠点の完成
1999年には、阪神・淡路大震災遺児の心のケアの拠点「神戸レインボーハウス」が世界中からの支援を受けて完成。同年、コロンビア・トルコ・台湾で立て続けに大地震が発生し、神戸の震災遺児たちが「恩返しをしたい」と支援を呼びかけたのが海外の遺児支援活動に発展していきました。
世界の遺児の中でも特に困難な状況にある、アフリカの子どもたちへの支援が提案され、2003年アフリカ・ウガンダに「ウガンダレインボーハウス」を建設。2007年からは読み、書き、計算の勉強をする「テラコヤ教室」も始まりました。
2012年には、将来アフリカに戻り母国の発展に寄与する若者を世界の大学へ進学させる「あしながアフリカ遺児高等教育支援100年構想」を正式に公表し、遺児支援は一層広がり続けています。
JR大船渡駅で息をのむ大学奨学生。見渡すかぎりがれきの山が広がっていた(2011年4月14日撮影)
2011年の東日本大震災発生後には、被災地の避難所を訪ね遺児を探しました。0歳から大学院生までの2083人の遺児に対して、返還不要の特別一時金(1人あたり約282万円)を給付しました。また仙台市、石巻市、陸前高田市で震災・津波遺児のための心のケアの拠点「東北レインボーハウス」を運営し、継続的に遺児・保護者のケアプログラムを行っています。
2020年の新型コロナウイルス感染拡大に際しては、コロナ不況により減収した遺児家庭の窮状を救うため、全奨学生に対して、ひとりにつき15万円の「遺児の生活と教育の緊急支援金」を給付しました。
あしなが運動創始者の想い

玉井義臣
YOSHIOMI TAMAI
[1935年~2025年]
あしなが運動 創始者
前一般財団法人あしなが育英会 会長
すべての遺児に 教育と成長の機会を届ける
子どもにとって、親の死は世界の崩壊を意味します。病気、災害、自死(自殺)……親を失い、暗やみの中に突き落とされた遺児は、「なぜ、自分がこんな目に」という衝撃、悲しみ、怒り、そして底知れぬ不安を感じながら、生きていかなければなりません。
私自身も、母を無謀運転の車に殺され、妻をがんに奪われました。
母と妻の無念を片時も忘れることなく、遺児支援を天命と思い、半世紀以上を歩んできました。遺児が心の傷を癒やし、教育を受ける機会を得て、いきいきと生きる場所を見出してくれること。そして、後輩の遺児を支援する側になってくれること。さらに社会のために活躍する人となること。それが私の変わらぬ目標です。
あしなが育英会の名前は、孤児の少女と匿名の支援者の手紙による交流を描いた米国の名作『あしながおじさん』に由来しています。名前を知らなくても、「自分を支えてくれる人がいる」と知った少女は、夢を持ち、たくましく成長していきます。これは、私が11万人以上の遺児支援を通して、実際に見てきたことでもあります。
私たちは遺児を支援していただく方を、心よりの感謝を込めて“あしながさん”とお呼びしています。
多くの方は、お金持ちではありません。日々の暮らしを切り詰めながら、遠くから遺児の幸せを願い、送金してくださっています。そんな“あしながさん”と遺児の橋渡しをしていることを、私たちは誇りに思っています。
交通遺児の進学支援から始まった「あしなが運動」は、災害、病気、自死遺児へと対象を広げてきました。障がいで親が働けなくなった家庭の子どもたちにも救済の手を差しのべています。また、阪神・淡路大震災の遺児による「自分たちが受けた恩を、世界で最も苦しんでいる子どもたちを助けることで返していこう」という提案から、アフリカをはじめ世界各地の遺児支援も行っています。
どんな時代であっても「学びたい」と願う遺児たちを守っていきます。
あしなが運動年表
| 1961年 | 岡嶋信治(本会名誉顧問)の実姉と甥が酔っぱらい運転のトラックにひき逃げされ死亡。朝日新聞「声」欄にその怒りを投書。その投書に131通の激励の手紙。文通続く |
|---|---|
| 1963年 | 玉井義臣(前本会会長)の母が交通事故で意識不明になり、翌年昏睡状態のまま死去 |
| 1967年 | 岡嶋と玉井が二人三脚で初めての街頭募金を実施、育英会設立資金の原資となる |
| 1969年 | 「財団法人交通遺児育英会」設立。同年高校奨学金貸与開始 |
| 1970年 | 第1回全国学生交通遺児育英募金(現あしなが学生募金)を実施 「高校奨学生のつどい」開始 |
| 1978年 | 交通遺児育英会学生寮「心塾」開塾 |
| 1979年 | どこかの誰かが遺児たちへそっとお金を送る「あしながさん寄付制度」開始 |
| 1982年 | 「ありがとうあしながおじさん、交通遺児の恩返し献血運動」実施 |
| 1984年 | 交通遺児たちが「災害遺児の高校進学をすすめる会」を結成 |
| 1988年 | 「災害遺児の高校進学をすすめる会」が災害遺児向け奨学金貸与開始 |
| 1990年 | 第1回「あしながPウォーク10」実施 |
| 1992年 | 災害遺児たちが「病気遺児の高校進学を支援する会」を結成 |
| 1993年 | 病気遺児への奨学金貸与開始と共に「災害遺児の会」と「病気遺児の会」が合併し、「あしなが育英会」設立 |
| 1995年 |
阪神・淡路大震災発生 あしなが奨学生が全国で震災遺児激励募金実施 |
| 1999年 | 日本初の遺児のための心のケアの拠点「神戸レインボーハウス」(兵庫県神戸市)竣工 あしなが育英会学生寮「虹の心塾」(「神戸レインボーハウス」に併設)開塾 |
| 2000年 | 第1回「国際的な遺児の連帯を進める交流会」開催 |
| 2002年 | ウガンダ共和国に国際NGO「あしながウガンダ」事務所開設 |
| 2003年 |
ウガンダレインボーハウス竣工 エイズで親を亡くしたアフリカ遺児に心のケア開始 |
| 2006年 | 「あしながレインボーハウス」(東京都日野市)竣工 あしなが育英会学生寮「あしなが心塾」(「あしながレインボーハウス」に併設)開塾 |
| 2010年 |
「あしながアフリカ遺児高等教育支援100年構想」発表 |
| 2011年 | 東日本大震災発生 被災した遺児2083人に対して1人あたり282万円の緊急特別一時金を給付 |
| 2012年 |
小説「あしながおじさん」出版100年目に、ウガンダ・マケレレ大学講演の場で「あしながアフリカ遺児高等教育支援100年構想」を内外に公表 |
| 2014年 | 東北初の遺児のための心のケアの拠点「東北レインボーハウス(仙台市・石巻市・陸前高田市)」完成 |
| 2018年 | 給付型奨学金制度を開始 |
| 2019年 | あしなが育英会を一般財団法人化 |
| 2020年 | 新型コロナウイルスの感染拡大により、50年続いてきた春秋の街頭募金と奨学生のつどいが中止される(2022年まで)。コロナ禍で困窮した遺児家庭を支えるため、4月と12月の2度にわたり、全奨学生に対して「緊急支援金」を給付 |
| 2022年 | 「全国募金リレー」と称し、5~12月に全国47都道府県を巡るかたちで街頭募金を再開 |
| 2023年 | 奨学金制度改革により、高校生対象の奨学金が全額給付となる。街頭募金がコロナ禍前の形に完全復活。奨学生のつどいも4年ぶりに再開される |
| 2024年 | 1月1日の能登半島地震で被害を受けた遺児や奨学生に緊急教育支援金を給付 |