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保護者インタビューまなざし「なりゆきに身を任せて」

保護者インタビュー まなざし#14

なりゆきに身を任せて

サトシさん(40代 北海道)

 

サトシさんの妻は、進行性の難病を患っている。コロナ禍で、2年前に入院した妻とはなかなか会えない状態が続いている。仕事をしながら孤軍奮闘、父親として、2人の思春期の子どもたちと向き合ってきた。迷いながら、苦しみながら、少しずつ体得していった、子どもとの距離やかかわり方について、お話を伺った。障がい者家庭インタビューシリーズの第3回。

明るくて楽しい、世話好きな妻

サトシさんは妻と職場で出会った。大学を卒業して就職したサトシさんにとって、高校卒業後に就職した妻は、年下ではあるが2年先輩だった。

「出会った当時は、パーマをかけた頭が綿あめのようにふわっとしていて、何かぶっ飛んでる人だなぁって思いました(笑)。明るくて、楽しい性格で、世話好きでした。一緒にいると楽しくて、いつも心地よかったです」

ふたりは旅行が共通の趣味で、九州や沖縄まで足を延ばした。旅の思い出が数えきれないほどある。

「沖縄の砂浜にビーチパラソルを立てて、二人でくつろいでいたら、そのままうたた寝をしてしまって。上半身はパラソルに隠れていたのですが、足がすっかり日焼けして、日焼けを通り超して火傷の状態になっていて、歩く度に激痛で大変!…なんていうこともありました」

結婚をして、二人の子宝にも恵まれた。子どもを連れて北海道内の旅も楽しんだ。仕事に育児に一生懸命、それぞれが頑張って、充実した日々を送っていた。

浅野さん家族写真①

団らんのひととき

妻に病気の兆候が見られるようになったのは、長女が小学校に入ったころ、長男はまだ保育園にいたころだ。初期症状は、歩行に乱れが生じたり、手に持っているものを不意に落としたりすることだった。めまい、ふらつきなど、日常の中に少しずつ気になる症状が現れ始めた。

「妻は、病院で検査することをためらっていました。検査で病気と診断されることが怖かったのだと思います」

診断は予想していたよりもずっと重いものだった。脊髄小脳変性症。運動や筋肉の細かい動きをつかさどる小脳が少しずつ委縮していく病気で、難病に指定されている。

 

「当時子どもは6歳と9歳で、まだまだ手がかかる時期でした。病気が分かってからも、妻は普通に生活していました。病気の特性上、なだらかに進行し、少しずつ不自由になっていくので、医者からは、リハビリも兼ねて家事はできる範囲で続けたほうがいいと指導されていました」

調子が悪いときは休みながら。それでも、車の運転もして、日常生活は静かに続いていった。

 

脊髄小脳変性症は、症状の出方が人によって異なり、さまざまな経過をたどって進行していく。サトシさんの妻の場合、てんかんの発作が起こり、それを機に症状が急激に悪化するという道筋を辿った。

「急に、携帯電話の使い方が分からなくなった、とかテレビのつけ方がわからなくなった、といった記憶障害が起こり始めました。車の運転も危ないので、それ以降は運転もさせなくなりました」

ゆっくりとだが、着実に病気は進行していった。

妻が、少しずつ変わっていく。

同じ時間、同じ空間を生きているのに、妻の時間はまるで逆回転がかかったかのように、幼児回帰している、とサトシさんは感じた。子どもがひとつひとつ習得していく過程のフィルムを、逆回しで見るかのように、妻はひとつひとつを手放していく。そして、まるで幼児のように、ままならない手足にかんしゃくを起こすこともあった。

浅野さん家族写真②

家族で遊園地

「弱音を吐いちゃいけない」孤独な葛藤

妻が最初にてんかんの発作を起こしたとき、発見したのは中学3年生になっていた長女だった。

「お父さん!とすぐに声をかけてくれて、自分が介抱している間に救急車を呼んでくれました。娘は冷静に動いてくれたと思います」

妻の症状は、短期の入院や薬の投与で良くなることもあったが、病状は確実に進行していた。

「ふたりの子どもと、母親の病気について直接話したことはないのですが、彼らの思春期に大きな影響を与えたと思っています。息子が中学に、娘が高校に進学したころから、不安定になってきて。息子は不登校に、娘も学校を休みがちになりました」

 

子どもが学校へ行かないという事態が、当時のサトシさんや祖父母には理解ができなかった。

「僕の母は教育熱心で、僕と弟を厳しく育てました。僕自身、そのことを疑問に思っていなかったし、母にしても、自分の子育てに自負があったと思います。だから、不登校になった当初は、息子にきつく当たってしまいました」

妻の病気、職場の仕事、慣れない家事などが一気に押し寄せてきて、サトシさん自身もこなすだけで必死だった。そこに、子どもたちの不登校が追い打ちをかける形で迫ってきた。

「余裕が無い中で、『なぜ学校に行けないんだ』と、息子を責めるようなことを言ってしまうんですよね。父と母も、『学校に行くのは当然だ』って思っているものですから、顔を見れば『まだ学校行けないのか』『なまけているだけだ、そんなもん』と厳しいことを言ってしまう。『叱るのは親の僕の役目だから、じいちゃん、ばあちゃんは優しくしてあげて。心の拠り所も必要だから』と伝えても、父も母も心配のあまり、つい感情的になってしまうのです。今思うと、息子には本当につらい思いをさせてしまったと思います。息子は居場所を失っていたと思います。母親は病気、父親は四苦八苦、祖父母の家に行けば叱られるし、逃げ場もなく、まさに八方ふさがりだったでしょう」

そんなこともあって、実家に助けを求めることも難しくなり、サトシさんはますます孤軍奮闘を強いられた。

「母親がいないってこんなに大変なことなんだって、身に染みてわかりました。子どもにとって、父親よりも母親の方が圧倒的に大事だと思います。父親は、何をやっても空回りという感じで…。でも、自分がしっかりしなきゃと強がっていました。弱音を吐いてちゃいけないって自分に言い聞かせていました」

 

朝が戦争だったと、サトシさんはいう。早朝から子どもと自分の弁当を作って、なかなか起きない子どもたちを何とか起こし、時計とにらめっこをしながら長女を高校まで送ってから、出勤した。

「娘はギリギリで間に合っても、自分が仕事に遅れるんですよ(笑)念入りにドライヤーを使う娘の尻を叩いて学校へ送るのがそれは大変で(笑)」

幸い、高校1年生で休みがちだった長女は、2年生になると友人にも恵まれ、登校できるようになった。その後、卒業まで大きな問題はなかった。

 

しかし、長男は中学校の3年間を、ひとり苦しみの中で過ごしていた。

「息子の担任の先生はよく相談にのってくださいました。ある日、中学校と今後の相談をするために、仕事の休みを取ろうと、届を作って、上司にハンコをもらいに行きました。その時、上司を目の前にして、何の前触れもなく…突然、ボロボロと涙が出てきたのです。…今思えば、自分自身、限界にきていたのだと思います」

とめどなく出てくる涙を見て、上司は別室に誘導してくれ、座って話を聞いてくれた。上司は、同じ父親として、自分も子育てには苦悩しているよ、と自らの体験を話してくれ、サトシさんのつらさを受け止めてくれた。最も厳しかったこの時期、上司と担任の先生は、サトシさんの良き理解者となってくれた。まさに、心の拠り所だった。

生と死は隣り合わせ、と教えてくれた体験

サトシさんは、身動きが取れなくなっている息子を見ながら、自分の若かったころを思い出していた。北海道で生まれ育ち、大学生までほとんど北海道から出たことがなかった。

「当時、吉村作治先生がエジプトで次々と遺跡の発見をなさっていて、テレビを見て憧れました。自分も人類の歴史に興味があったのです。大学に通いながら、アルバイトでお金を貯めて、卒業間近の3月に、往復の航空券とわずかなお金を握りしめて、ひとりでエジプトまで行きました。初めての海外旅行で、片言の英語でホテルを取ったり、列車に乗ったり、国内線の飛行機にも乗りました」

それは真の冒険旅行だった。何気なく、カイロ市内の建物を写真に収めようとしたら、急に複数の私服警官に取り囲まれて銃口を向けられた。驚いて、「サイトシーイング!」と言って両手を挙げると、カメラを取り上げられた。撮影したものをチェックして、カメラは返してくれたが、「あっちへ行け」と手で追い払われた。後から聞いたところによると、ムバラク大統領がそこに滞在していて、一帯は警戒を強めていた時だった。

 

また、その数日後にはタクシーで移動中、警察に止められた。「この先はテロが多発していて危ないから」と目的地まで警察が誘導してくれることになった。実際、帰国して間もなく、ルクソールで観光バスが襲撃され、たくさんの日本人が犠牲になった。北海道ののどかな地域に暮らしていたサトシさんにとって、無縁と思われた拳銃やテロを身近に感じる体験で、強い衝撃を受けた。

「この旅行を機に、死生観が大きく変わりました。それまで自分の死について深く考えたことがありませんでしたが『あ、俺、ここで死ぬのかも』と思うことが何度かあって、常に生と死は隣り合わせなんだなと思いました」

その旅行は、サトシさんを成長させてくれた。安全な親元、地元を離れて、外に飛び出してみなければ、経験できないことがたくさんあると、気づかせてくれた。ひとりで得た経験こそが、成長や成熟につながるということも知った。

浅野さんエジプト

エジプトへひとり旅

「一切なりゆき」

「息子とのかかわり方を模索する中で、たくさんの本を読みました。中国の思想書とか、仏教の本とか、キリスト教の聖書も読みました。何かをつかみ取ろうと必死でした。そんな中、ふっと手に取った、樹木希林さんの本があったのです。『一切なりゆき』というタイトルに惹かれて読んでみると、そこには仏やキリストとは違う、自分と同じ時代、同じ世の中を生きてきた人の言葉が書かれていて。ひとつひとつが腑に落ちたのです」

読んだ後、フワッと気が晴れた、とサトシさんはいう。

「一切成り行きなんだな~」

その言葉に心が放たれた。

「くよくよしても仕方ない。日々を一生懸命に生きるのみ。ひとつのことに一喜一憂しないで、あるがままに受け止めようって思うことができました」

そして、エジプトの体験。子どもたちも、親元を離れて、自分の手で何かをつかみ取る方がいいのではないか。その思いが沸き上がってきた。ぎゅっと握りしめていたこぶしが、ゆっくりと開いていくようだった。

「不登校への怒りっていうのは、親のエゴなんです。それを、子どもにぶつけてはだめ。世間の目とか、固定観念とかが染みついている親の方の問題だと、気が付いたのです」

 

長男には、地元から離れたところにある、不登校を経験した子どもが全国から集まるという余市の高校をすすめた。今、寮に住んでの高校生活も10ヶ月が経つが、実に楽しそうにしている。不完全燃焼だった中学の3年間を取り戻そうとしているのか、積極的に活動している。

「最近、心を痛める事件が多いですが、孤独が原因のひとつだと思います。人間ひとりでは生きていけない。息子の今後の人生においても、人間関係は重要なので、人との関わりあいを多く持てる全日制の高校に行くことができたのは、とてもよかったです。良い学校と巡り会えた幸運に感謝しています」

教員も、心の傷を負った子どもたちとの関わり方を知ったプロフェッショナルだ。長男が安心して、活き活きとしている姿を見ると、サトシさんは嬉しくて涙が出てくる、という。

「息子は、人の気持ちがわかる、本当に優しい子に育ってくれました。息子には感謝とともに懺悔の気持ちもあります。本当につらい思いをさせたなって。だから、高校の3年間はできるだけ関わっていきたいと思っています。片道5時間かけてPTAの集まりに行きますが、いつも楽しい気分で運転しているんですよ」

 

長女には、大学進学を機に東京へ出ることを勧めた。

「希望の学部は北海道の大学にもありましたけれど、地元を離れて広い世界を見てきてほしいという思いがありました。あしながの心塾を利用できれば、東京も現実的な選択でしたから。入塾の時に自分も心塾を訪ねて、ここなら安心だなって思いました。娘にも、本当に苦労をかけたと思います。弱音を吐かずに頑張ってきてくれたことに、とても感謝しています」

 

家族4人がそれぞれの場所にあって、「今」を生きている。

夢は3人で音楽を奏でること

「妻は、2年前から入院しています。もう、寝たきりで言葉もしゃべることができません。コロナ禍もあって、今、妻には何もしてあげられませんが、子どものことを心配していると思いますので、僕がしっかり育てていかなくちゃならないな、と思っています。それが精一杯です」

 

長女も長男も、おっとりとして穏やかな、優しい子に育ってくれている。気遣い、心遣いもできる。それ以上、何を求めよう。嵐のような日々が去って、サトシさんは今、ひとり穏やかな時間を過ごしている。

「思いたって、ギターを習い始めました。息子が引きこもっているときにドラムを叩いていたので、いつか一緒にセッションできたらいいなって思っています。娘も、ピアノを少し弾きますから、夢は3人でのセッションですかね(笑)」

子どもたちとも、旅がしたい。世界中には、まだまだ訪ねてみたい場所がある。肩の力を抜いて、成り行きに身を任せて生きてゆこう。

浅野さん家族写真③

家族旅行での一枚

(インタビュー 田上菜奈)

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