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阪神・淡路大震災から28年「あしながOGインタビュー」 ~みんなの『ありがとう』があつまって~

神戸レインボーハウスに、2021年12月、出原由紀さん(旧姓:原島)が、26年の時を経て、初めて来館された。出原さんは阪神・淡路大震災が起こった後、2月18日、19日の2日間、学生代表として「阪神大震災遺児激励募金」の街頭に立っていた。

1995年1月17日

今から28年前となる1995年1月17日午前5時46分、明石海峡を震源とする震度7の巨大地震が発生し、多くの尊い命は奪われ、住み慣れた街並が消えた。奨学生(奨学金の貸与を受けている学生)やあしながさん(当会へ寄付をしてくださっている支援者)の安否確認をする為、95年2月から、あしなが奨学生や市民ボランティア、スタッフを含め、のべ881人が巡り歩き「ローラー調査」をし、573人の震災遺児を探し出した。

 

当時、出原由紀さん(旧姓:原島さん)は、卒業が間近の大学4年生だった。小学校1年生のとき、父親を海難事故で亡くし、母親と妹の3人家族。あしなが育英会の奨学金を受け大学に通っていた。1995年1月17日は、妹の成人式のため加古川の実家に帰省していた。1月16日に西宮の鳴尾の1DKの下宿先に戻る予定だったが、「明日の朝、直接学校へ行ったらええやん」と延ばした。そのおかげで命が助かった。

 

いつだったかの記憶はない。三田周りで電車を乗り継いで、何とか西宮市の下宿先に母親と一緒に戻ったら、部屋はぐちゃぐちゃだった。建物は無事だったが、棚に置いてあったものなど、全部ベッドに落ちていた。

 

母親はドアを開けた瞬間、「由紀ちゃん、ごめんやけど。もう帰ろ~。もう見てられへん。もう帰ろ~」と言い、すぐその場を後にした。震災から27年が経ち話される出原さんの言葉は涙声だった。「全然思い出されへんのですよね。学校もぐちゃぐちゃやって。研究途中の卒論もぐちゃぐちゃで。卒業式もなくなって。何してたかわからない。卒論も仕上がってるけど、全然記憶がないんです。何してたんやろ・・・。全く覚えてない。全然覚えていない」

「一人でぽつんとなっている子はいないだろうか」

1995年2月18日、19日の2日間、「阪神大震災遺児激励募金」のため街頭に立ち、ローラー調査にも参加した。「2月の募金の時は、私は学生代表やったけど、皆と同じことをやってただけ。今までも募金はやってきていた。出来ることはなんやろう、ってみんなで考えたとき、募金をするのは、自然な流れやったんやと思う。自分たちに出来ることを必死にやっているだけだった」

 

当時、住宅地図などをたよりに震災遺児を探す遺児学生ら

当時、住宅地図などをたよりに震災遺児を探す遺児学生ら

 

神戸市東灘区御影にあった喫茶店跡の「あしながボランティア本部」の写真を見て、「ここね~。喫茶店の地べたで寝ましたもんね~」と言葉が漏れ、「でも、どんな人に会ったとかローラー調査について本当に記憶がない。潰れた屋根の上を歩いている人を見た記憶は鮮明にある。でも、本当に記憶がない。なんで?・・・。両親を亡くした子も多くいると思った。一人でぽつんとなっている子はいないか。私と同じ悲しみを味わっている子はいないか。ただそれだけやったと思う」と当時の想いが溢れ出た。

 

当時のあしなが育英会仮事務所

神戸市東灘区御影の喫茶店跡に「あしながボランティア本部」を開設

みんなの「ありがとう」

ローラー調査や街頭募金、出来ることにひたすら邁進していたとき、テレビ局の取材を受けた。「なんでお父さんは亡くなったんですか」という不躾な質問にものすごく腹が立った。「私ならもっと寄り添った取材ができるのに」という怒りが将来を変え、決まっていた企業の内定を辞退し、マスコミ関係の就職活動を開始した。

1995年4月から2年間、震災関連の番組に携わることができた。

「震災で変わってしまったけれど、こうやって先を見て動きだしている人達の姿を、一人でも多くの人に伝えられるのはいいことやん」そういう人たちを応援したい、と多くの方の取材をさせてもらった。「人と接し、人としゃべることが好き。その方達に寄り添いながら、その人たちの姿を大切に正しく発信したい」2009年まで放送業界を歩み続けた。

 

現在は、2人の子どもを育てながら生命保険会社で働いている。「悲しみと共に貧しさがおとずれないように」という会社の言葉が響いた。その通りだと思った。

「私は、あしながさんがいなかったら大学へは行けていない。高校生のとき、奨学生採用試験を受けに東京に行って、人生が変わった。自分は何をしよう、と世界が広がった。母親もまさか私が大学へ行くとは思っていなかった。本当に感謝が強くある。震災が起こったとき、そういう「感謝」がある人たちが集まっていた。その中で、みんなの『ありがとう』が集まって、できることをやる。街頭募金、ローラー調査となったのは、本当に自然な流れだったと思う」

 

1995年から4年後、1999年1月、いつか子どもたちの心の中の黒い虹に自分なりの七色の虹を架けていけますようにと願いをこめ、継続的な心のケアを提供する拠点「神戸レインボーハウス」を多くの方々の応援を受け、設立した。その後、震災遺児世帯とボランティアによって灯された灯は拡がり、現在は全国に5箇所のレインボーハウス(兵庫県神戸市、東京都日野市、宮城県仙台市、石巻市、岩手県陸前高田市)が設立されている。「ぽつんとなっている子はいないだろうか」という出原さんの想いは今も継がれている。

 

投稿者

高橋 耕生

高校生のときに友人を亡くす。以来、死別を経験した人へのサポートについて学びながら、神戸レインボーハウスのファシリテーターとしても活動。 現在は職員として、一人ひとりの遺児と向き合い、グリーフサポートプログラムの進行や運営を主に行っている。

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