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保護者インタビュー「だえも知らねぇ偉業」

保護者インタビュー まなざし#13 

だえも知らねぇ偉業

M.Tさん(60代 東北エリア)

「ヤングケアラー」という言葉がマスメディアで取り上げられるようになった。あしなが育英会は、運動の初期から「親の死」と同時に「親の障害」「親の介護」と向き合ってきた。M.Tさんの夫は、脳出血で倒れてから24年という永い歳月を、不自由な身体で過ごしている。3人の子どもを育てながら、介護の仕事を続け、家族を支えてきたお母さん。強く、優しい、ひとりの女性の生きざまを紹介したい。

人生が変わったある一日の出来事

「それは、長男が中学校の修学旅行から帰ってきた次の日でした。日曜日で。運送会社に勤務していた夫は休日出勤の日だったので、修学旅行のお土産を親戚の家まで届けようかと話をしていた時でした。早めの午後に電話が鳴って、それが無言電話で、何だろうね?と思って切ろうとした瞬間に、声にならないうめき声のようなものが聞こえたのです。声にならない声でも、それが夫のものだとピンとくるものがあって。長男を連れて、急いで会社に行きました」

 

会社に着いてみると、日曜日の事務所は、ほとんどのドアに鍵がかかっていて、人の気配がしなかった。窓から中を覗くと、床に夫が倒れているのが見えた。

やはり!

Mさんと長男は、開いている入口を何とか探して、倒れている夫の元に駆けつけた。夫に意識はあったが、言葉も出ず、身体も動かなかった。

「すぐに救急車を呼びました。救急車が来るまでの間に、汚してしまった事務所の床を掃除しました。我ながら以外と冷静だなって思ったのを覚えています。それから、会社の人に伝える手立てがなかったので、長男を事務所に残して、夫と自分だけが救急車に乗り込みました。『トラックが戻ってきたら、運転手さんに何があったか伝えて』と。今思えば、父親の生死も分からない状態で、誰もいない会社にひとり、中学生を残して行ったのですから、息子はどれほど心細かったでしょうかね」

長男はその任務を果たしてくれた。病院に着いてから夫の実家に電話をして、長男を連れて来てもらった。

 

夫が倒れる予兆はあった。

「手がしびれる。肩から麻痺している感じがする」                                                   

と、数日前から口にしていた。病院で診てもらったほうがいいと、Mさんが勧めても、夫は病院に行くことを渋った。

「病院が嫌っていうんで、ケンカしながら説得して、ようやく『次の代休日に病院に行こう』という話になったのです。まさに、倒れた日の翌日に、病院へ行く予定だったんです」

だから、電話口で声にならない声を聞いたときに、Mさんにはピンときたのだった。

夫は、脳出血で緊急手術をしたが、水頭症も併発して、すぐに再手術となった。予断を許さない状態が続いた。Mさん自身、何日も集中治療室から出ることができなかった。

 

「長男は、倒れている父親を発見して、救急車を見送ってから、病院で寝ている父親を見るまで、不安だったと思います。家には弟と妹がいて、子どもたちだけで過ごす夜は初めてだったし、兄として自分がしっかりしなくては、と肩に力が入っていたことでしょう。何日か経った頃、電話口の長男の変化に気付きました。大人に頼んで病院に連れて来てもらい、長男と二人きりで話をしました。『ひとりでがんばらなくていいよ。うちはうちのやり方でやっていくからね』と伝えると、少し落ち着いたように見えました」

家に帰れない日がしばらく続いた。夫の容態が落ち着いてからも、病院と家を行ったり来たり。小学生と中学生の子どもたちだけで過ごす時間が長かった。彼らが頑張って、何とか家事を回してくれた。

 

夫の後遺症は重く、社会復帰は絶望的と診断された。入院生活は1年半にも及び、必死のリハビリにより何とか自宅に戻れるまでに回復したが、物につかまって立ったり、何歩か歩いたりするのが精いっぱい、という状態だった。夫の人生も、Mさんの人生も、家族の人生も、病気によって大きく一変してしまった。

情報こそが生命線 友情こそが命綱

Mさんは複雑な家庭に育った。結婚をする時の条件は、実家の母と兄の生活の面倒をみるというものだった。兄には重度の障害があった。幸い母親は健康だったので、自立した生活ができていたが、3人の子育てに実家の世話もあって、Mさんはいつも大忙しだった。そこに、ほとんど動けなくなった夫の世話が加わった。6人の人生が、生活が、責任が、一気にMさんの肩にのしかかってきた。

 

その中において、Mさんは常に冷静に振舞った。

現実を客観視する冷静さがあり、先のことを見越す冷静さがあり、子どもや家族を思いやる冷静さがあった。

「以前、ママ友のひとりが、ホームヘルパーの講習を受けたと言っていたのを思い出して、それしかない、自分も勉強してみようと思いました。夫が入院中にホームヘルパー2級(現在は介護職員初任者研修)の講習を受けて、資格を得ました。何らかの資格があったほうが、収入が安定すると思ったのです」

 

夫の病状が落ち着いて1年が過ぎたころ、病院の付き添いの時間を減らせるよう看護師とも相談して、アルバイトを始めた。夫が入院しているときは付き添いがあり、自宅療養中も忙しかったので、すぐに介護の仕事にはつけなかったが、夫が施設に入居してからは、念願だった介護職に就くことができた。3年間の実務経験の後、介護福祉士の国家資格も取得した。

「夫の退院後、どのような支援を申請したらいいか分かっていたのは、その分野の勉強をしたおかげでした。もし、自分がそっちの方向に進んでいなかったら、得られなかった情報がたくさんありました」

 

日本の福祉サービスは他国に比べれば充実しているといえるかもしれない。しかし、「申請主義」という原則があり、利用者が申請しないと、支援は始まらない。福祉は黙って待っていてもやってこない。

「福祉サービスとつながることができたから、すぐにパートに出られたんですよ。情報の力は大きいです。ひとりだったら、ここまでやって来られなかったです。情報が手元に届いたとしても、社会経験が乏しい主婦からすると、障害者手帳にしろ、住宅ローンにしろ、あらゆる手続きにしろ、分からないことだらけです。ママ友やそのご主人様たちが、私に代わって調べてきてくださって、やり方も教えてくれて、何とか手続きもできたんです。みなさん、本当にさりげなく、手を差し伸べてくださいました。そのさりげない心遣いが、すごく嬉しかったです」

日常が壮絶 壮絶が日常

父親が倒れるまで、普通の生活を送っていた子どもたちにとっても、環境の変化は大きかった。父親が自宅で療養している時期は、特に厳しかった。学校から戻るころ、母親は入れ違いにパートに出かける。午後4時から8時半くらいまで、母親は仕事をしていて、その間の妹や父親の世話は、高校生の兄たちに託された。クラブ活動を調整しながら、誰かが必ず父親の傍に居なくてはいけなかった。幸い、半年ほどで施設に入居できたが、ヤングケアラーとして頼らざるを得なかった日々のことを思うと、今でも心が痛む、とMさんはいう。せめて手料理は食べさせたいと、午前中に晩御飯をこしらえていた。

「父親を移動させるときには、階段を負ぶって降ろさなくちゃいけなかったんですよ。私の身体では無理ですから、長男か、次男にやってもらうしかない。高校生とはいえ、父親を背負うのは大変だったと思います」

 

福祉サービスを利用しても、利用時間は限られている。家族の負担は大きい。Mさんも、家事、掃除、介護と忙しく、パートに出られる時間は限られていた。家計には常に余裕がなかった。療養施設のショートステイを利用していたが、ショートステイは最長で2週間と決まっている。2週間自宅での介護、2週間施設でのショートステイというサイクルが続いた。ショートステイ先までは車で片道1時間半。往復3時間の道のりだった。  

「子どもたちが本当によくやってくれました。この頃のことは、ほとんど記憶に残っていないのですよ。記憶に残っていないということは、それほどの心配事や大きな出来事が無かったともいえるのですけれど、それは親の私がいうことですよね。子どもたちは大変だったと思います。子どもたちに何かを感じた時は、その都度話を聞きました。夫の病状に関しても、事実を子どもたちには伝えていました」

 

しかし、Mさんにかかる精神的、肉体的な負担は大きかった。その後、自らの身体にも異変を感じた。

「夫が倒れて2年が過ぎたころ、自分も病気をしました。腫瘍ができて、病理検査をしながらの手術を受けました。子どもたちは、情報がないと余計、不安になると思って、きちんと話しました。もし、自分に万一のことがあったら、こうやって暮らして、誰に相談して、という話をしました。幸い、病理検査の結果は良性の腫瘍で、完治することができましたけれど」

事実を知ることは、子どもにとってきついことだと分かっていたが、強く生き抜いてもらうためには、そうするしかないとも思っていた。子どもを信頼し、彼らの強さを信じていたからこそ、事実を伝えることをためらわなかった。

 

そのことがきっかけになったのか、長男があしなが育英会奨学金の話をもってきた。

「高校はお母さんが何とかするよ」

と、伝えても、母親の負担を少しでも減らしたいと願った長男は、

「自分の責任で借りたい」

と、いって譲らなかった。大学も、奨学金を使って進学してくれた。次男も長女も、長男に倣って、奨学金を借りて進学した。

「夫のことは安心して病院にお任せできました。遅まきながら、子どもたちに注力できるようになったのは、本当に嬉しかったです。何とか、一人前の社会人に育てなければ、と考えていました」

人生の凪(なぎ)に漂う幸せ

夫が施設に移ってから21年が経ち、Mさんの介護職としてのキャリアも21年となった。仕事をしながら、実家の世話もあって、夫に会いに行けるのは月に1度がせいぜい。コロナ禍では、その回数にも制限がかかった。

「夫と会っても、話はしないです。会わない間の出来事を話すと、『俺に何の関係がある?』と言われるし、子どものことを話しても『俺に何ができる?関係ない』と言われてしまうんです。私に何ができるかなぁって思って…夫は、コーヒーが好きなので、淹れたてのコーヒーとお菓子を持っていくようになりました。後は、マッサージが好きだから、マッサージをしてあげて、写真を見せたりして子どもの話をはさんでいます。それが、私の面会です」。

夫の記憶や認知が、一直線上につながっているかどうかは、実のところよく分からない。何か、話を続けようとしても、夫は怒り出したり、感情的になったりする。昔話や思い出話も出てこない。

「夫の言葉で子どもを傷つけることもあるので、それぞれの判断で関わればいいよと伝えてあります。でも、就職とか、結婚とか、大事な報告は自分の口からちゃんと伝えるということは、約束していて、それは守ってくれています」

コーヒー

母親が90歳を越えて、障がいを持つ兄は施設に入居した。2年前の話だ。その後、母親も、老人施設に移った。子どもたちは全員独立している。今ようやく、人生に凪がきた。

「小さな息抜きをしながら、頑張ってきたけど、年々動けなくなってきて。60歳を越えてからは何をやっても時間がかかりますね(笑)何かが頭の中から抜け落ちていたりもして。でも、相変わらず、毎日仕事です」

 

とはいえ、まだ60代。将来の夢を尋ねてみた。

「全部から解放されて、何日かゆっくりしたい!(笑)その後は、自分がやりたいなって思うことを、じっくりやる時間が欲しいです。木工とか、手芸とか、物作りとかが好きなんです。コツコツと手先を動かすことに没頭したい。今の仕事にも愛着がありますけれど、本当だったら物づくりの仕事がしたかったなって思います。退職したら、ちょこっと自由な時間をもらってもいいかな、木工なんてやったらいいかなって思います(笑)」

夫も、器用な人で、よく物を作ってくれた。物置にちょうどいい棚を作ってくれた思い出もある。そんな夫の姿を思い出しながら、時間をみつけては、ちょっとした木工細工を楽しんでいる。かつて一身に背負っていた6人の人生が、それぞれの場所で静かに、平和に、続いているのを幸せに感じながら。

(インタビュー 田上菜奈)

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