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正直もう、何も怖いものはない

保護者インタビュー「まなざし」#10

岡野さん (埼玉県 30代)

 

優しくて、面白くて、頼りがいがあって働きものだった最愛の夫が、突然死でこの世を去って3年。5人の子どもたちと暮らす岡野さんは、「人に支えられている。とても幸せ」と語る。しかし、夫の死はまだどこかで現実ではないのでは?と、受け入れられていない部分もある。その胸の内をお伺いした。

まさに理想の夫

 岡野さんが語る、亡き夫は、まさに理想の男性だ。

「一言でいえば、本当にいい人でした。優しくて、思いやりがあって、面白くて。ユーモアがあって、独特な感性の持ち主で、会話が本当に面白くて笑いが絶えないのです。家族のだれもが、いつまででも話していたいって思うような人でした。仕事も、家庭も、本当に大切にして、一生懸命やってくれたと思っています」

 家庭における夫の人気はアイドル並みだった。仕事が終わって、帰宅を知らせる車の音がすると、子どもたちは我先にと競って玄関まで迎えに出た。最初にお父さんに抱っこしてもらうのは誰か、最初に手を伸ばしてもらえるのは誰か…そこに岡野さんも加わって、お父さんの取り合いは毎日だった。寝る時も両脇は誰と誰が寝るか、と子どもたちは毎晩大騒ぎしていた。

「夫は、子どもたちがやりたいということは、何でもやらせてあげたいと考える人でした。子どもたちが失敗しても『いいじゃん、いいじゃん、面白いじゃん』って子どもたちに伝えることが出来る人。何でも面白がれる人だったんです。本当に最高のお父さんでした」

 

 双子が生まれた時、岡野さんは授乳でほとんど眠れない日が続いた。夫は仕事が終わると急いで帰ってきて、双子の相手をしてくれた。

「お疲れさま、もう何も考えなくていいよ。耳栓して、アイマスクして寝て!」

と、岡野さんを労って、世話を引き受けてくれた。

「自分だって疲れていただろうし、ほとんど眠れないのに『大丈夫、大丈夫、どこかで仮眠とるから』って言ってくれて。おかげで、私は授乳ノイローゼになりかけていたものの、心を病まずに済みました。後日、近所の人が話してくれたのですが、夫は、夜中に両腕に双子の赤ちゃんを抱えて、歌を歌いながら、楽しそうに近所をランニングしていたそうです。その姿を想像するだけで、笑えちゃうでしょう?」

 

 子どもたちが小さい頃は、母や姉も手伝いに来てくれたが、5人の育児の期間、夫の協力は大きかった。

「休日の朝など、掃除機の音で目が覚めることがありました。夫が掃除機をかけながら、『忙しくて手が回らない人にこうしたら?って10回言うよりも、自分が気付いた時にやる方がどれだけ楽でどれだけ早いか理解できたよ。でも、僕ができない時には宜しくね』ってサラっと言うのです。文句を言うのではなくて、上手に導いてくれるというか。私は頑固でわがままなところがあって、正論を言われても納得できない性格なのですけれど、そう言われてしまったら頑張ってやるしかないっていう感じでした。喧嘩にならない相手なのです」

 岡野さんが掃除をする割合が増えてくると、次に夫はサイクロンクリーナーを買ってきてくれた。

「これだったら、重くないから誰でも使えるし、ママも楽でしょ?」

 そういった、日常のさりげない愛情が嬉しかった。岡野さんも家族もそんな夫を心から愛していた。

 

岡野さん家族写真

岡野さん家族揃っての写真

突然死と大きすぎる喪失感、そして…

 5人の子どもは、高校3年生、中学3年生、小学3年生と小学1年生になっていた。受験生が2人いたので、岡野さんは昼間の仕事に加えて、週2日、夜勤もこなして、進学費用をまかなおうと頑張っていた。夫は岡野さんが夜勤に出ている間に、誰にも気づかれることなく、突然亡くなった。死因は今でも不明なのだが、早朝に、長男が家で倒れている夫をみつけて連絡をくれた。

「家の様子がおかしい。今すぐ帰ってきて」

 ただならぬ様子に、岡野さんは仕事を早退して急いで帰宅した。

「あまりに突然のことで、全然受け入れられませんでした。今も、受け入れられているか、と問われたら受け入れられていないと答えるかもしれません。亡くなった当初は、夢なのか現実なのか分からない時期が続きました」

 最愛の夫を亡くした岡野さんは、何も手につかず、放心状態で、生きていく意味さえも失いかけていた。それは、子どもたちも同じだ。毎日、学校へは通っていたが、すっかりふさぎこんで、何もかもが現実味を失っているように思えた。

「小さな子どもたちは、父親が死んだ現実がよく分からなかったのか『パパはいつになったら帰ってくるのだろう』という感じでした。みんなが、何となくフワフワとしているような、変な感覚もありました」

 

 しかし、経済的なゆとりはなかったので、岡野さんはすぐにでも仕事に復帰しなければならなかった。1カ月ほど経って仕事に復帰したその日に、最初の事件が起こった。

「手伝いに来てくれた母が、家の中で骨折の大けがをしてしまい、救急車で搬送されたのです。緊急手術をして入院をするような、大きなけがでした」

 その日を境に、家族が次々と骨折する事件が起こった。

「数日して、今度は娘が、その数日後には息子が…と、みんなが次々と骨を折ったのです!私も足指を折りました。短期間に6人も骨折者が出たのです。それも、普通だったら絶対に骨なんて折らないよね?というような、軽微な出来事で、手や、足や、指や、鎖骨を、いとも簡単に折ってしまったのです。そうなると、今日は誰々の病院、明日は誰々の病院と、毎日が病院通い。夫の仕事の引継ぎもあって休むことができない上に、頼みの綱だった母まで入院してしまい、もう、てんてこまいでした。落ち込んでいる暇も、感傷に浸る暇も無くなって。家と仕事と病院をせわしなく動き回って、付き添いと送り迎えでバタバタしているうちに、気が付いたら日常に戻っていました(笑)。最後の方は、誰かが骨を折ると、『もう笑うしかないね』っていって、みんなで笑うようになりました。病院ではあまりの骨折者の多さに虐待を疑われたりもしましたが、おかげ様で落ち込んでいる暇も泣いている暇もなくなりました(笑)」

 ケガをして、痛みを感じることで自分自身や家族にも意識を向けることができた。夫が居なくなっても、自分たちは生き続けていることを実感した。ユーモアいっぱいの夫が、残された者たちの顔を上げさせるために骨折事件を起こしたのかも…と、いまでは岡野家の笑い話になっている。

周りの方々に助けられ続けている

  夫は、自営で通信関係のシステムのメンテナンスを行っていた。他界するまで岡野さんは仕事の内容をほとんど知らなかったという。大手の下請けの仕事だが、夫がこなしていた仕事の量は通常の一営業所では考えらえないほど膨大で、別の業者がすぐには穴を埋めることができないほどだった。やむなく、岡野さんと義兄が夫の仕事を引継いだ。現在に至るまで二人で稼働している。

「メンテナンスをしていると、何年か前の夫の仕事を発見したり、行った先のクライアントさんから『以前来てくれた人はすごくいい人だった』と声をかけられたりして、泣きそうになります。私は、彼の仕事のほんの一部を引き継いだだけですが、それでもしんどいです。夫がその何倍もの仕事を、たったひとりでこなしていたことを考えると、どれほどしんどかっただろうかと思います。それでも、家に帰る前には気持ちをリセットして、全く嫌な顔を見せたりしないでくれたんだなぁって…。仕事を通して、彼に対する感謝の気持ちがさらに強くなりました。すごく頑張っていたんです」

 いつも全力疾走で、力の限り生きていた人だった。葬儀の時に、仕事も家事も人の倍くらいこなしていたことを知った住職が、こう言ったのが印象的だった。

「亡くなられた歳は44歳だったけれど、人の倍、生きられたのなら88歳でしたね。丁度、寿命でしたね」

 彼の人柄もあり、それを受け継いだ子どもたちの人柄もあり、周りの方々がこの3年間、手を差し伸べ続けてくださっている。

「すぐに、仕事を引き継げたのも、クライアントの方々の勧めや励まし、ご理解があったからこそ。学校の先生方にもずっと恵まれています。末の子は、将来、教師になりたいといっています。それは、どの子に対しても、先生方が本当によくサポートしてくださった証拠だと思います。いい影響を与えてくれるいい大人が回りに沢山いて、助けてもらっていることを実感しています」

一番恐れていたことはもう起こってしまった だから正直もう、何も怖いものはない

「夫は、母子家庭で育ちました。本当にとっても素晴らしいお義母さんで、素直に育ったと思いますが、やはりいろいろな体験ができなくて、寂しかったとも言っていました。だからでしょうか、我が家も生活に余裕はなかったけれど、夏のキャンプと、冬のスノーボード旅行だけは恒例行事にしていて、費用を捻出して、みんなで出かけるようにしていました。子どもたちにはできるだけ色んなことを経験させてあげようっていうのが、夫の方針でした。計画を立てるのは彼で、私はなるべく経費を安くあげるよう調べに調べて。それがまた、ゲームみたいで楽しかったです」

 夫は普段から、子どもたちを公園へ連れ出してくれたり、家族全員でインラインスケートができるよう、人数分を揃えてくれたりした。出かけられるところには、喜んで連れて行ってくれた。岡野さんが休日出勤をしている日は、子どもたちを連れてサプライズで店にきてくれた。本当に家族が大好きな人だった。

 

岡野さん子どもたち

とても仲良しの子どもたち

 

「上の子たちが大きくなってからは、結婚記念日には二人だけで外食ができるようになりました。普段は、ほとんど外食なんてしないのですが、その日だけは、特別なレストランに連れて行ってくれて、ふたりだけで食事をしました。夫が亡くなった翌年は、私たちにとって大きな節目の年だったので、『行けなかった新婚旅行に行こう、挙式とまではいかないけれどウエディングドレスを着て写真だけでも撮ろう』と提案してくれました。じゃぁ、今年は節約のために居酒屋で我慢しようかねって話をしていたのです」

 しかし、突然の別れになってしまった。通夜の日が、奇しくもふたりの結婚記念日だった。

「お通夜の間、彼の写真をボーっと見上げて、『おかしいな、私は今日、居酒屋にいるはずなのに、どうしてここに居るんだろう』と思ったのを覚えています。『これはまた衝撃的なサプライズだなぁ』って笑えてきちゃって…」

 

 毎日が幸せだった。ふたりで一緒になってから、毎日、こんなに幸せでいいのかな、と友人や兄弟に話していた。今も、幸せといえば幸せだ。みんな、元気で、笑うこともできている。でも、夫が居た時は、もっと格段に幸せだった。

「夫が亡くなってから、一度だけ、恒例のスノーボードに家族で出かけたんです。でも、面白くはなかったです。大変なだけでした。夫の代わりは誰にもできないのです。何をしてもひとりでは、自分のダメさ加減を認識するだけです。夫さえいればすべてがそれで良かったのに、って思います。私がこの世で一番恐れていたことはもう起きてしまったので、正直もう、何も怖いものはないです。今は、そんな感じです。夫と一緒にいた時期が、この世で最高に幸せな期間でした。一生分の幸せをもうもらっちゃったから、いなくなっちゃったんだと思います。子どもたちにとっては、まだまだ足りなかったね、って思いますが」

これからの人生

 岡野さんは、夫と出会って変わることができたという。

「私は自分が幸せになれる人間だと思っていませんでした。夫と出会って、まともな人間になって、一生分の幸せを貰いました。私に幸せを教えてくれて、彼はあっという間に去っていった感じがします。天使だったのかな?仏様か、神様の御遣いだったのかも?って思うこともあるくらい。後は、私が彼からもらったものを、子どもたちに、どう与えらえるか、ですね」

受け継いだバトンの重さを感じている。

 岡野さんは、子どもたちがある程度大きくなったら、今の仕事は辞めて、大好きだった飲食の仕事に就きたい、と考えている。

「本当のことをいうと、私はメカ音痴で、アナログな人間。機械をいじる今の仕事よりも、飲食店のホールの仕事が好きです(笑)。だから、その時がきたらホールの仕事に復帰して、一生、その仕事をしたいです(笑)」

 父親の死から3年。子どもたちも大きな成長を見せている。ひとりひとりが、思いやりを持って、やれることを精一杯やっている。夫が残してくれたスピリットが、それぞれの中にちゃんと生きている、と岡野さんは感じている。

岡野さんお墓の前で

夫のお墓の前で

 

(インタビュー 田上菜奈)

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