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保護者インタビューまなざし「死別してもワンチーム!」

保護者インタビューまなざし#9

「死別してもワンチーム!」

リエさん (40代 首都圏)

 

4年前に夫と死別して、ひとり親として4人の子どもたちを育ててきたリエさん。夫は医師で、他界したのは開業して半年後のことだった。悲しみ、怒り、不安、重圧、葛藤、寂しさを抱える日々を、どうやって乗り越えてきたのか、お話を伺った。

まさか、こんなに早く帰天するとは

 医者だった夫が46歳の若さでこの世を去ったとき、子どもは小学1年生、小学4年生、中学2年生、高校1年生だった。仕事も子育ても、まだまだこれからというときだ。

「4番目の子が産まれた直後に、夫が務めていた病院の看護師から『顔色が悪い』と指摘されて、検査を受けたのです。そうしたら、血液の難病にかかっていることが分かって。生死にかかわるレベルの貧血と聞いて、えーって驚いてしまいました。その時は、勤め先に2カ月ほど入院したのですが、夫は責任感が強かったので、そんな状態でも主治医を説得して、病室から外来に出勤していました」

 何とか日常生活を取り戻したものの、その後も薬は手放せなかった。学生時代アメフトで鍛えた体は一見、健康そうに見える。この6年後に突然の別れが訪れた時も、夫に限って、まさかそんなことが起ころうとは考えてもいなかった。

「とても忙しい日々が続いていましたから、いつものように少し身体を休めたら改善するだろうと楽観していたのです。ところが、あれよあれよという間に危険な状態になってしまって」

より設備の整った病院へ転院すると言われた時も、子どもたちは落ち着いてから連れて行こうと思った。しかし、ICU(集中治療室)へ運ばれた夫は、5日後、帰らぬ人となった。

「最期に、子どもたちと会う機会を作れなかったことが、今でも悔やまれてなりません。どうしてあの時、一緒に病院へ連れて行かなかったのだろうと…。夫がまだ、話ができるうちに、子どもひとりずつに声をかけてもらっていれば、心残りが無かったかもしれないです。今でも、そのことを考えるだけで胸が張り裂けそうです。心肺停止といわれても、何とかなると思っていた自分は、本当にのうてんきですよね」

 心の準備もないまま、4人の子どもと自分を残して、夫は居なくなってしまった。

 

夫と末の子

夫と末の子

残されたものの悲しみ、苦しみ

 「残された妻にとって、何が大変って、後始末なんですよ!もう本当に大変だったんですから!」

そういうと、陽気なリエさんは屈託なく笑ったが、現実はかなり厳しいものだった。

「実は、夫が亡くなる半年くらい前に、病院勤務を辞めて、自分の病院を開業したのです。子どもが4人もいるし、難病も抱えているわけだから、絶対にやめて!と大反対したのですが、最後は夫の情熱に押し切られました。彼は、それこそ寝る間も惜しんで仕事をしていました。開業した半年間に、一気に、手広く、事業を進めていったのです。勤務医のままだったら、年金も保障も手厚かっただろうし、今でもお金の心配をしなくて済んだかもしれないと考えると、本当にもう!という感じです(笑)」

 後始末には、本当に泣かされた。様々な煩雑な手続きが延々と続き、方々走り回っては説明をして、何とか事業をたたんだ。言われの無いことを言われて、悔しい思いもした。亡くなった当初は、悲しみと、怒りと、絶望と、不安とが一度に襲いかかってきて、苦しくてならなかった。

「もう、口を開けば恨み辛みばかりでした(笑)でも、それは彼に対する恨み言というよりは、残された者の苦しみから出る言葉です。自分も仕事はしていましたが、4人の子どもを背負ってどう生きていったらいいのか分からなかったし、楯となる存在が居なくなった寂しさや、様々な不安、葛藤がありました。そういう気持ちが言葉になって出るんですよね」

「ぼく、頭がおかしくなったみたいだ」

 夫の死後、家族は深い悲しみに陥った。それは、様々な形で不調として現れた。小学校では何事もなかったかのように振舞う子どもたちも、夜になると父親を恋しがって泣くことが多かった。中高生になっていた二人の姉は、リエさんや年下の子を励まそうと気丈にふるまった。

「半年ほどたって、ようやく日常生活が戻ってきたなと思えた頃、元気だけが取り柄の息子が、『ぼく、頭がおかしくなったみたいだ』って言ったんです。彼は明るいキャラクターだから、学校では寂しさを口にすることができなかったのでしょう。末の子も同級生に『ねぇねぇ、お父さん死んだんでしょ』って正面から言われたことがあって、とっさに『ううん、死んでないよ』って答えたと聞きました。それぞれが精いっぱいだったのだと思います。」

 そんな頃に、人づてに知ったあしながレインボーハウスを訪ねた。何とかしたいの一心だった。

 

 初めて参加したのは、小中学生を対象とした夏のつどい(サマーキャンプ)だ。下の子2人が2泊3日のプログラムに参加した。プログラムが終わり、リエさんと息子が二人だけになったときに、

「行けてよかった、お母さんありがとう。ぼく、泣けてすっきりしたよ」

と、涙目で伝えてくれた。その言葉から、あしながのスタッフが彼をどのように受け入れてくれたかが想像できた。その日以来、2人の子は目に見えて状態が良くなった。同じ境遇の友人と出会い、語り合ったり、一緒に遊んだりして、心が落ち着いたのだ。それがリエさんにとっても歓びであり、安心であった。

先輩保護者の言葉「3年経てば、景色が変わる」

 夫と死別して1年ほどが経った頃、あしながのケアプログラムで出会った保護者の1人と話していた時のことだ。その先輩保護者が、リエさんにこういった。

「リエさん、3年頑張ってね。3年頑張ったら、ちょっと気が楽になるのよ。何かが変わって、周りが見えてくるのよ。私も、レインボーハウスへ来はじめたころ、先輩からそう言われたの。その時は分からなかったけれど、3年経ったころに確かに何かが違う、と思ったの」

 それから、リエさんにとって3年というのが目標になった。希望でもあった。

「3年経ったら楽になるかも」

 夫の死後、親族や多くの友人、知人がリエさんを気にかけてくれた。話をして、あぁ、楽しかったと思った次の瞬間、そんな気持ちがワーッと波にさらわれて悲しく、虚しくなる。夫が亡くなったばかりのころはその波が頻繁に訪れ、何度も足元をすくわれるような心持ちになった。「どうしようもない…」と落ち込んでしまうことも。

 

 「悲嘆」が及ぼす心の影響を知ろうと、グリーフケアの勉強を始めてみると、心のバランスが崩れることは、悲嘆にくれる人に現れる自然な心理現象なのだと分かった。「頭がおかしくなったわけではない」と、理解することができた。心のバランスが崩れた時は、「頑張っているから、今は振り子が大きく戻っているんだ」と考えるようにした。悲しみが心からすっかりなくなることは無いが、波にもっていかれるような絶望的な感覚に襲われるスパン(時間の間隔)が、段々と長くなってきた。あまり気にならなくなったころ、3年という月日が経っていた。

「グリーフケアの勉強に通っていた時に、『人が立ち直るには4年半の年月が必要』とも教わり、あしながの先輩、ナオミさんが教えてくれた3年、そして学校で習った4年半、というのが、私の中での目標でした。3年経ってみると、確かに心の景色が変わってきました。ふと、楽になっている自分に気が付きました。そして、4年半が経った今年の春には、新しい職場のご縁ができました」

 

 「3年」という目標がリエさんにとってあまりにも大きかったので、3年目のメモリアルデーには、お世話になった方々や親族、夫の大学関係者を大勢呼んで偲ぶ会をした。4年半の時は、4人の子どもたちと「4年6カ月、よくがんばったね!」と、自分たちの健闘を祝福しあった。

「4年6カ月ですから、ひとり4600円ずつ、お小遣いを渡したのです。ずっと前から、そうしてあげようと思って準備していました。小さい子は特に喜んでいました(笑)」

何事も経験!人生バウムクーヘンやで

 4人の子どもたちは、それぞれが父親に似てマイペースで、ポジティブ思考だ。親の目から見ると、あれこれ小言をいいたくなるが、全員が健康に、元気よく育ってくれている。

「夫はとても手先が器用なので、裁縫が苦手な私に代わって、4人のこどもたちが幼稚園や小学校で使った、手提げ袋などを全部作ってくれました。子どもとの時間を捻出しては、一緒に野球観戦に行ったり、釣りやハイキング、アイドルの握手会に行ったりして。食べ放題のお店も好きで、一緒に行くのが楽しみでした。電車の旅が特に気に入っていて。地図を広げては、子どもたちと乗った路線を色鉛筆で塗ったりして、子どもとの思い出を記録していました。子どもたちを喜ばせるために始めたことでも、気が付けば、彼の方がのめり込んで楽しんでいたように思います」

 今でも、長男は、ふとした時にひとりでプロ野球を観戦しに行く。そして、父親との思い出を辿るように、電車に乗って、ひとり旅をするという。

「それぞれが、悲しい思いや、苦しい思いを抱えて、この4年と8カ月を生きてきました。たくさん泣いたし、たくさん人に支えて頂きました。だからね、言うんですよ、子どもたちに。苦しい思いも、体験も、ひとつひとつがみんなバウムクーヘンの層やで、って。幾重にも幾重にも層がかさなって、人間おいしくなるんやで!って(笑)。人としての魅力や旨味は、様々な体験を乗り越えればこそ身につくものでしょう?何層にも重なって、どこから切ってもおいしくて、きれいなバウムクーヘンみたいな人間になるんやでって励ましています。味気ない人間になったらあかんで、って(笑)」

 

 今でも、夫が亡くなったことが信じられない時もある。いつも、こどもたちとの会話には「お父さん」の話題が自然に出てくる。何かあったときにも、「お父さんだったらどう言うと思う?」「お父さんだったら、こう言うと思う」と、父親の価値観を確かめている。

「かといって、美化しているわけではないんですよ(笑)。あんなところが恥ずかしかったとかいって笑ったりもします。でも、亡くなった今でも存在感は大きく、私たちの家族と共にあって、ひとつのチームとして存在している感じです」

支えられて、支え返して

 「目の前に道はないと思ったあの日から、私たちはたくさんの方々に助けられてここまできました。振り返ってみれば、道はちゃんとできていました。その道のりを思い出すと感謝の気持ちでいっぱいになります」

だから、子どもたちには、学生時代にボランティア活動をできるだけ多く経験して欲しいと思っている。

「お金がものをいう世界において、無償で、人のために何かをするっていうのは、本当に難しいことなんですよ。だからこそ、仕事でお金を稼ぐ前に、ボランティア体験をして、『人の関係って何か』ということを考えて欲しいんです」

 あしなが奨学生である姉が街頭募金に立った時に、下の2人もボランティアで参加した。

「あしながさんに直接会って、募金頂くお金のありがたみを感じるって、本当にいい経験です。小学生が、一生懸命訴えると、どの募金箱よりも募金が集まるので、すっかり張り切ってしまって(笑)」

 あしながさんから「がんばって」と声をかけられる。目と目を見てお礼が言える。小さな自分でも、誰かの力になれることを実感する。街頭に立って募金をした子どもたちには、リエさんの望み通り、しっかりとボランティアの心が芽吹いている。その芽はやがて、大きな枝になるだろう。

 

 リエさん自身も振り返れば、この4年間は全く思い描いていない人生だった。夫の代わりに自分が死んでいれば、子どもたちも経済的に困らなかっただろうにと、何度思ったことか。しかし、人生は思い通りにならないから面白いのだと思えるようになった。

「のうてんきな自分だったから、夫との死別を体験して、ようやく大事なことに気付けたのかもしれないです」

 

「もし、夫にもう一度会えたらですか…?

彼が亡くなると分かっていたら、私が落ち込んでいるときに、安心するような言葉を残して欲しかったんですよ。何か、拠り所にできる言葉が欲しかった。『がんばりや』とか、そういう言葉があったら、慰めになったのになぁって。だから、もし夫が目の前に現れたら、『ちょっと待って!録音させて!!』って言うと思います(笑)

そして、『ようがんばったやろ?』って、聞くと思う。

彼は多分、『ありがとう』って、言うと思います」

 

リエさん結婚写真

結婚当時のふたり

 

(インタビュー 田上菜奈)

 

文中に出てくる、先輩あしなが保護者のナオミさんの記事はこちらから

あしながレインボーハウスを含む国内遺児の心のケア事業はこちらからどうぞ。

投稿者

田上 菜奈

あしなが育英会では、会長室、アフリカ事業部100年構想を経て、現在は「お母さん相談室」という部署を担当。保護者からの相談の受付や心のケアプログラムの保護者チームの運営に携わっている。「保護者インタビューまなざし」も執筆している。

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