www.ashinaga.org
* あしなが育英会とは 奨学金 心のケア あしながレインボーハウス あしなが心塾 ボランティア ひゅーまん 世界の遺児 寄付・支援方法
ひゅーまん あしなが育英会を支えているのは、人と人のあたたかいつながりです。遺児、そのお母さん、遺児たちを支える人々の心を紹介します。
プレスリリース あしながTODAY キューアンドエー 募金 資料請求 メール サイトマップ
内閣官房副長官、本会副会長(休職中) 下村博文さん
弱者に光あたる政治を目指す
 父親を亡くすことは寂しく悲しいだけではない。大抵貧乏になる。下村博文の場合も典型だったが彼は貧困を大志と意思と行動力ではねのけ、06年9月26日、安倍晋三内閣の内閣官房副長官に就任した。安倍と同じ52歳。首相官邸のNO.3である。
 あしなが育英会が政治を語るのはタブーに近い。でも今「下村博文」をとりあげるのは、40年のあしなが運動で高校奨学生第1期生、大学奨学生2期生(05年逝去した西本征央慶応大医学部教授=当時。と同期生)であり、大学時代からよく識る、気骨ある政治家として信頼できる男だからだ。
 下村家は、人口約6000人の倉渕村(現高崎市)に暮らしていた。下村は小3(9歳)で父正雄(当時38歳)を交通事故で亡くした。高等小学校を出て村の農協に勤めていた。母冨子(当時32歳)は高等女学校出だったが、博文の下には昇治(5)、敏則(1)の乳飲み児含め3人の子どもを抱え苦労が始まる。
 母は実家の榛名町に3人の子をつれて帰った。朝暗い内から畑に出て農作業、昼はパート仕事、夕方から真っ暗になるまで土と格闘する毎日だった。僕は、ずっと前遺児の母が夜でも月が出ると畠に耕しに出るという話を書いたことがあったので下村のお母さんの辛苦に胸を打たれた。朝のご飯は3人の兄弟で1個の生卵を分けてかけ食べた。昼夜は「おきりこみ」という簡素な煮込みうどん。生きるのに精一杯だった。中学校はサッカー部に入って主将。帰れば耕運機に乗って手伝う。
 高校は町の中学から年に2〜3人しか入れない名門群馬県立高崎高校へ。新聞部で取材や記事を書いた。夏休みと休日は土方をした。1日5000円になった。受験に失敗、東京に出て新聞配達をしながら予備校で勉強して、78年早大教育学部に入学。とにかくよく頑張りくじけない少年だった。
 早大では伝統ある雄弁会に入り、3年には幹事長のポストにつく。一方で、アパート2間を借りて大学の仲間と塾を開いたら、最初30人だった生徒が120人に増え、生活も安定した。教え方が評判になり繁盛し、大学卒業即塾経営者になった。
 初めて選挙に出たのは、85年31歳の時で、遺児から政治家を出さないかぎり母子の声は政治に届かない、と遺児学生挙げて応援したが、次々点で落選した。貧乏ながら自力で上昇してきた下村は自信家で後輩たちに総スカン。それを今日子夫人がフォローした。僕は天狗の鼻が高くなるのも当たり前なのでいい薬になると黙っていた。
 貧乏人同士が仲間割れしててどうなるか。捲土重来を期してくれ、と心でエールを送った。僕は愛妻由美が残り時間少ない頚髄のがんに災ったので、妻の看病にかかっていた。そのがんも終末期を迎えた89年7月の深夜、下村が相談に来た。病院の近くのホテルの喫茶店で3時間から4時間話した。いよいよ選挙に出るものと思っていたら、塾経営が順調なので政治は40代になってからにする、という。
 「バカもん」と僕は怒鳴った。「君は若く理想に燃えているから魅力的なので、小金を儲けて中年から名誉職的に出たんでは誰も見向きもせん」と延々説得したら、「やります」と握手を求めてきた。実は今日子夫人の親から健康上の理由もあり、政治をやるなら離婚だと言われ、断るためにやってきたのだという。政治か教育か迷っていた時でもあり、僕の直情的な説得が功を奏した。それに耳を傾ける素直さが彼のいい所だった。
 89年、都議選初当選。96年、衆議院選初当選。00年二期目当選。03年3期目当選。03年8月あしなが育英会副会長(休職中)と上昇は早かった。よく勉強し、よく働いた。
 よく叩かれる政治家だが、信念に生き、遺児や弱い人々のための政治家であってほしい。
 最後に下村は僕に言った。
 (1)弱者にも光が当たる政治でないと意味がない (2)国家のあり方、あるべき姿を求めていく。
 バカな親父の息子びいきかもしれないが、僕は君を信じる。(敬称略・画像=07年04月17日首相官邸にて)
聞き手・文(本会会長)玉井義臣


*