病気や災害、自死(自殺)で親を亡くした子どもたちを物心両面で支える民間非営利団体です。
設立のあゆみ
あしなが育英会は、遺児高校生・大学生たちの活動で誕生しました。
街頭募金にお金を入れてくださる方や奨学金を継続的に送金してくださるあしながさんへの「恩返し運動」として、1983年に災害遺児の奨学金制度をつくる運動が始まり、1988(昭和63)年に災害遺児奨学金制度が発足。
さらに、進学した災害遺児が病気遺児の奨学金制度づくりを呼びかけ、1993(平成5)年に病気遺児奨学金制度発足に合わせて、あしなが育英会(初代会長・武田豊新日鉄社長、現会長・玉井義臣)が誕生しました。
あしなが育英会の誕生は上記の通りですが、その前に遺児救済運動の長い歴史があって実現したものです。すこし長くなりますが、「あしなが運動前史」におつきあいください。
1967(昭和42)年、共に無残な交通事故で最愛の肉親を亡くした2人の青年の出会いが運動の始まりです。1人は岡嶋信治さん(当時24歳)で、7年前の高校3年のとき、親代わりの姉と甥を酔っぱらいトラックにはねられ引きずられるという事故(日本初の殺人罪適用の交通事故)で亡くし、新聞への投書などを通じて「交通事故遺児を励ます会」づくりを進めていました。もう1人は玉井義臣(当時32歳)。その4年前、自宅前で暴走車にはねられ、1か月余の昏睡状態の末ボロギレのように死んでいった母親の事故で、賠償金は強制保険金を含めわずか50万円という、あまりにも人間の命をバカにした制度に憤りを抑えきれず、「朝日ジャーナル」(65年)で、当時最も立ち遅れていた被害者救済対策として、(1)脳外科医を増やせ、(2)強制保険金を高額に――を提言して、日本で第1号の交通評論家(新聞評)としてTV・ラジオに出演、『交通犠牲者』などを執筆し新聞や雑誌で活躍していました。
1968年10月、2人の呼びかけに応じた勤労青年、学生、主婦らのボランティア10数人と一緒に「交通事故遺児を励ます会」の旗揚げ街頭募金。12月、交通遺児作文集『天国にいるおとうさま』が大反響を呼び、衆議院予算委員会での「政府は交通遺児の育英財団づくりに手を貸し、助成せよ」との異例の決議と、活動が広がり、1969年5月、財団法人交通遺児育英会が設立。永野重雄会長(富士製鉄社長、後に日商会頭。故人)、玉井専務理事で船出しました。
「せめて高校進学を!でないと死んでいった主人に申し訳ない」という母親の願いで、初めの10年は進学支援に力を注ぎましたが、一方で「励ます」という精神的サポート面も重視し、夏休みには宿泊を伴う「奨学生のつどい」を全国で開催しました。自分を見つめ、自分をさらけ出して友達をつくり「苦しいのは自分ひとりではない」という連帯感が生まれ、「頑張らなければ」と遺児たちは自助へと踏み出していきました。この「つどい」のプログラムは、現在も不変の心の癒しの芯棒です。
また、貧乏でも東京の大学に行け、人づくりの場にもなるようにと、1978年に東京都日野市に学生寮「心塾=こころじゅく」を開きました。心塾は、『心、それが人間を人間にする』(緒方富雄・東大名誉教授。江戸時代「適塾」の開祖、洪庵曾孫)を精神に、『暖かい心・広い視野・行動力・国際性を兼ね備えた人類社会有用の人材育成』をめざす寮でした。寮費は2食つき月1万円ですから、奨学金と長期休暇のアルバイトでなんとか東京周辺の私大でも進学できます。朝6時の起床から体操、周辺マラソン、清掃、朝食のあと登校。帰寮後は、週1回、著名人を招いての「心塾講座」や作文、月2冊の読書感想文、3分間スピーチなどのカリキュラム。会えば大声で挨拶、門限は女子9時、男子11時と、当時の若者には過酷ともいえるスパルタ寮生活でした。
この心塾生の中から、学生募金を引っ張り、災害・病気遺児の育英制度を誕生させた若者が育ちました。現在あしなが育英会の事務局や神戸レインボーハウスで若手・中堅として遺児たちのケアに活躍している職員も、心塾出身の遺児卒業生が大半です。卒業生たちは、世のため人のために各分野で活躍しています。
2005年の夏休みの「つどい」は、山中湖の大学・短大・専門学校生と全国9会場での高校生と、レインボーハウスの震災遺児が始めた「国際的な遺児の連帯をすすめる交流会」は第6回になり津波遺児ら90人を招いてあしながの遺児1,000人とのサマーキャンプを4会場で行いました。21世紀の運動が海外遺児との連帯と共生を求め急拡大しています。
また、「つどい」でリーダー陣の中心として活躍したのが、心塾精神を継承して神戸レインボーハウスに併設した「虹の心塾」の大学・短大・専門学校生たちと震災遺児高校生たちです。
設立のあゆみ
冒頭で、あしなが育英会は交通遺児の高校生・大学生の活躍で誕生した、と述べましたが、ここが会の最大の特徴であり、私たちの誇りですので、少し詳しく書きます。
1982年、交通遺児育英会の夏の高校奨学生のつどいで、「あしながさんってどんな人?」について話し合いました。イメージするために、あしながさんの入会動機の文章を輪読しました。「幼いときに貧しかったので、上の学校に行けなかった。君が代わりに行って!」「奨学金で進学したので、そのお返しに」「家にはテレビもありませんが、家計を切りつめて送ります」「君らくらいのときに娘を亡くした。娘と思って応援します」など。
はじめは、イヤそうに聞いていた高校生は、やがて頭をうなだれて涙を流し、場内は感動に包まれます。「あしながさんってお金持ちで、同情でお金を恵んでくれているんだ」と思い込んでいた高校生たちは、「あしながさんって、ふつうのおじさん、おばさんで過去に貧乏や不幸の経験をした心温かい人だ」と知って、その"無償の愛"に打たれます。顔が輝き始めます。
だれかが提案します。「あしながさんに何か高校生でもできることをして恩返ししよう」「あしながさんの愛を社会に広めよう」。話し合いの結果、帰ったら全国の仲間で献血活動をしよう。電光石火の動きでした。遺児のあしながさんや支援者への「恩返し運動」の始まりです。
翌83年、秋田沖の日本海中部地震、長崎・島根水害、三宅島噴火など自然災害の多い年でしたので、つどいで「災害被害者のための募金しよう」ということになり、2,284万円を集め、被災各地に贈りました。その秋、熊本の高校生らが「災害が起きれば、遺児が生まれる。"災害遺児"にも僕ら交通遺児のように奨学金制度をつくって、進学の夢を果たしてもらおう」と、当時の細川熊本県知事と一緒に街頭で訴えました。
84年夏からは、当然のように「災害遺児に高校進学の夢を!」をテーマに全国が燃え拡がりました。もちろん大学奨学生も活動の輪に入っていました。
災害遺児ってどんな災害で親を亡くすの?どんな補償があるの?遺族の生活は?
政府統計は何もありませんでした。そこで、過去3年間の新聞の縮刷版をひっぱりだして、事故災害と被害者名を抜き出し、一軒一軒まわって「お子さんに作文を書いてください」と頼みました。怪しまれて、水をぶっかけられ「帰れ!」といわれたこともありました。そして、ついに1986年12月、災害遺児作文集「災害がにくい」が刊行されました。
マスメディアがとりあげ、多くの国民の関心を集め、国会も動き、当時の竹下首相は、「1988年度には予算をつける」と公約しましたが、その約束が守られなかったので、「災害遺児の高校進学をすすめる会」(大学生の小河光治会長)は、学生主体のまま、1988年4月から奨学金を貸し出し始めました。小河は、高校奨学生・大学奨学生の7年間「恩返し運動」に身を捧げました。他の多くの仲間も同様です。
その翌年、進学できた災害遺児らが「病気遺児にも進学の夢を」と恩返し運動を継承発展させ、1993年には病気遺児にも奨学金制度ができ、両制度が合併して、あしなが育英会が誕生するのは、すでに述べたとおりです。
強調したいのは、あしなが育英会をつくった主役は、あしながさんの愛とそれに感動して恩返し運動した遺児たちだったということです。